宮崎支庁長就任と延岡隊結成
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「藁谷英孝」の記事における「宮崎支庁長就任と延岡隊結成」の解説
明治9年(1876年)8月21日に宮崎県は鹿児島県と合併・統合すると、翌10年(1877年)に鹿児島県二等属に転じて、鹿児島県宮崎支庁長に就任した。 就任早々に旧鹿児島城下では私学校党による同年1月29日の弾薬掠奪事件、2月3日には中原尚雄らからの西郷暗殺に関する「自白書」がとられたことから西郷が兵を率いて上京する方向になり、藁谷は大山綱良の書面を宮崎支庁に持ち帰る。 小倉処平の兄で宮崎支庁詰の長倉訒が伊東直記らと旧飫肥藩士を中心とした飫肥隊を結成し、鮫島元や島津啓次郎、鹿児島県御用掛の小牧秀發らが旧佐土原藩士を中心とした佐土原隊を結成すると、2月8日に当時延岡にいた塚本長民と大島味膳に対して西郷暗殺疑惑の発覚と西郷の出兵の目的、延岡からの出兵催促の書面を送り、さらに翌日2月9日に大和田伝蔵を使いとして飫肥隊と佐土原隊の出発と再度の延岡からの出兵催促を長民と味膳に送り、宮崎支庁での長民らの大山県令の書面の確認を経て延岡隊が結成される。
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