美術史におけるグロテスク
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「グロテスク」の記事における「美術史におけるグロテスク」の解説
美術においては「グロテスク」は、花飾りと小さく幻想的な人間と動物の像とを織り交ぜたアラベスクの装飾的な配置であり、通常はある種の建築構造の周辺の対称的なパターンとして配置されるが、これは確実なものではない。このような意匠は古代ローマでフレスコ壁画や床のモザイクなどとして流行していたもので、ウィトルウィウス(紀元前30年頃)はこれらを無意味で不合理なものであるとして退ける文脈で実に優れた描写をしている:「カールした葉を伴う葦が縦溝彫りの柱に取って代わり、渦巻飾りがペディメントの代わりとなり、枝付き燭台が神殿の彫像を支持し、その天井には人間の顔が意味もなく載った細身の脚と渦巻飾りが生えている。」 ネロのドムス・アウレアが15世紀末に偶然発見された時、1500年の間土砂に埋もれていた部屋は地下洞窟(grotto)の様相を呈しており、フレスコや繊細なスタッコによるローマの壁面装飾は一大発見であった。この装飾はラファエロ・サンティとその弟子の装飾画家たちによって紹介され、グロテスクはローマのバチカン宮殿の一連の「ラファエロの部屋」の一部を構成するロッジアで完全な装飾体系へと昇華された。この装飾は、古典主義のオーダーに慣れ親しんでいたが、古代ローマ人たちが自宅においてはしばしばそうした規則を無視してより幻想的かつ形式ばらない、軽快さと優美さに満ちた様式を採用していたとは思いもしなかった多数の芸術家たちを驚かせ魅了した。これらのグロテスク装飾では額石または枝付き燭台が中心点となりえ、枠は土台の一種として周囲の意匠の一部となる渦巻模様へと延長されていた。軽快な渦巻模様のグロテスクは、付け柱の枠の中に閉じ込められることで整理され、しっかりした構造を与えられていた。ジョヴァンニ・ダ・ウディーネ(英語版)は、近世ローマのヴィラで最も影響力のあったヴィラ・マダマ(英語版)の装飾にグロテスクのテーマを採用した。 エングレービングを通じ、グロテスク様式の表面装飾はスペインからポーランドまでに至る16世紀ヨーロッパの芸術上のレパートリーとなった。後のマニエリスム、特にエングレービングでは、グロテスクは古代ローマ人やラファエロが用いていた風通しの良い充分に空間を開けた様式と比して非常に密に詰め込まれたものになる傾向があった。グロテスクはすぐに寄せ木細工に、1520年代後半からは(特にウルビーノで生産された)マヨリカ焼きに、さらには書物の挿絵やその他の各種装飾にも出現するようになった。フォンテーヌブロー宮殿では、ロッソ・フィオレンティーノとその弟子たちが、帯飾り(ストラップワーク)の装飾形式とグロテスクを組み合わせ、石膏や木の塑像での革紐の描画をグロテスクの1要素とすることによりグロテスクの語彙を豊かにした。 バロックではあまり用いられなかったが、新古典主義でグロテスクは再び息を吹き返し、ポンペイやその他のヴェスヴィオ火山周辺の遺跡で発見された古代ローマの作品からさらなる刺激を受けた。グロテスクはその後の帝政様式やヴィクトリア朝時代でもますます重厚になりながら用いられ続け、意匠は16世紀のエングレービングと同じ程に密に詰め込まれ、優美さや幻想性は失われる傾向にあった。 18世紀イギリスの建築家ロバート・アダムもグロテスク風模様を洗練させたゴシック装飾を得意とし、アダム・スタイルと呼ばれた。 時間を遡って語義が拡張され、中世の装飾写本における、余白に描かれた親指大の半人の装飾模様である「ドロルリー」もまた現代の用語ではグロテスクと呼ばれる。 現代の挿絵芸術では、「グロテスク・アート」もしくは「ファンタジー・アート」と呼ばれるジャンルにおいて、口語的な意味での「グロテスク」な図像がよく見られる。
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