第二巻「意志としての世界の第一考察」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/11 08:17 UTC 版)
「意志と表象としての世界」の記事における「第二巻「意志としての世界の第一考察」」の解説
~すなわち意志の客観化~ 第17節 事物の本質には外から近づくことはできない。すなわち原因論的な説明の及びうる範囲。 第18節 身体と意志とは一体であり、意志の認識はどこまでも身体を媒介として行われる。 第19節 身体は他のあらゆる客観と違って、表象でありかつ意志でもあるとして二重に意識されている。 第20節 人間や動物の身体は意志の現象であり、身体の活動は意志の働きに対応している。それゆえ身体の諸器官は欲望や性格に対応している。 第21節 身体を介して知られている意志は、全自然の内奥の本質を認識する鍵である。意志は物自体であり、盲目的に作用するすべての自然力のうちに現象する。 第22節 従来意志という概念は力という概念に包括されていたが、 われわれはこれを逆にして、自然の中のあらゆる力を意志と考える。 第23節 意志は現象の形式から自由である。意志は動物の本能、植物の運動、無機的自然界のあらゆる力のうちに盲目的に活動している。意志の活動に動機や認識は必要ではない。 第24節 どんなに究明しても自然の根源力は「隠れた特性」として残り、究明不可能である。しかしわれわれの哲学はこの根源力のうちに人間や動物の意志と同じものを類推する。スピノザ、アウグスティヌス、オイラーの自然観。 第25節 意志はいかなる微小な個物の中にも分割されずに全体として存在している。小さな一個物の研究を通じ宇宙全体を知ることができる。意志の客観化の段階はプラトンのイデアにあたる。 第26節 合法則的な無機的自然界から、法則を欠いた人間の個性に至るまで、意志の客観化には段階がある。自然の根源諸力が発動する仕方と条件は、自然法則のうちに言いつくされるが、根源諸力そのものは、原因と結果の鎖の外にある。マルブランシュの機会因説。 第27節 元来意志は一つであるから、意志の現象と現象の間にも親和性や同族性が認められる。しかし意志は高い客観化を目指して努力するので、現象界はいたるところ意志が低位のイデアを征服し、物質を奪取しようとする闘争の場となる。有機体は半ばは死んでいるとするヤーコブ・ベーメの説。認識は動物において個体保存の道具として現われる。認識の出現とともに表象としての世界が現われ、本能の確実性は休止し、人間における理性の出現とともに、この確実性は完全に失われる。 第28節 意志の現象は段階系列をなし、「自然の合意」によって 無意識のうちに相互に一致し合う合目的性をそなえている。叡智的性格と経験的性格からの類比。意志は時間の規定の外にあるから、時間的に早いイデアが後から出現する遅いイデアに自分を合わせるという自然の先慮さえ成り立つ。自然の合目的性を証明する昆虫や動物の本能の実例。 第29節 意志はいかなる目標も限界もない。 意志は終わるところを知らぬ努力である。 世界は、主観によって制約された客観としてはわたしの表象である。しかしそればかりでなく、ショーペンハウアーは、世界はわたしの意志であるともいう。われわれ自身は、表象においては身体の動作として知られているが、そのものが自己意識においては生きんとする意志 (Wille zum Leben) として知られる。いわば身体は表象において表現されたところの意志である。ここで独我論を避けるには、自己から類推 (analogie) して、世界の他の本質も意志とみなすべきであるとして、「あらゆる表象、すなわちあらゆる客観は現象である。しかしひとり意志のみは物自体である」とショーペンハウアーは説く。 こうして把握された意志は盲目であって、最終の目標を有してはおらず、その努力には完成はないものとされる。そのような意志においては、障害を克服して得られた満足は一時的であって、しかも無為は退屈にすぎないのであり、あくまでも積極的なのは欠乏であるといわれる。
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