コンスタンティヌス帝の翻意とアタナシウスの追放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 03:53 UTC 版)
「エウセビオス」の記事における「コンスタンティヌス帝の翻意とアタナシウスの追放」の解説
さて、328年ごろにはコンスタンティヌス帝はすでにアリウス主義支持に傾いており、皇帝は334年のカエサレアでの宗教会議にアタナシオスを召喚するが、彼はそれに応じなかった。翌335年には、エウセビオスを議長としてティルスの宗教会議が開かれ、アタナシオスのアレクサンドリア司教罷免とその追放が決定された。「文藝春秋」の「大世界史」の7「中世の光と影」の5「キリスト教世界の展開」の「アタナシウスの教会自由の主張」によると、『エウセビウスは、皇帝の教会支配、国家教会主義をみとめる立場であり、アタナシウスは、信仰に関するかぎり、いかなるこの世の権力とも妥協しない立場であった』とある。この説が正しいなら、コンスタンティヌス大帝がアリウス派支持に傾いたのは『皇帝の教会支配をみとめる立場』であることが理由の一つになる。
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