プロポンティスの城壁とは? わかりやすく解説

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プロポンティスの城壁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:37 UTC 版)

コンスタンティノープルの城壁」の記事における「プロポンティスの城壁」の解説

プロポンティスの城壁は海岸線に従って港や埠頭以外を守っていた海の城壁で、高さは12メートルから15メートル13の門と188の塔を有していた。全長は8460メートルほどで、さらにヴランガ港の内壁として1080メートル続いていた。1956年から1957年沿岸ケネディ通り建設された際、城壁一部破壊された。プロポンティスとはコンスタンティノープル半島東・南側の海岸線を指す。この海域は非常に海流強いため、プロポンティスの城壁は敵の攻撃さらされる危険はあまりない代わりに、海そのものから構築物を守る必要があった。城壁基礎前に防波堤築かれ、また基礎強靭化するために大理石製の使われていた。古代アクロポリスがあった半島東端から南の海岸沿いに「大理石の塔」まで伸びるプロポンティスの城壁は、次のような設備構成されていた。 大理石の塔(右側から) 大理石の塔(南から) 大理石の塔と接続している構造物 大理石の塔と接続している構造物 大理石の塔(ケネディ通りから) 最初の門は東門 (Ἑῴα Πύλη, Heōa Pylē) で、近く教会の名をとって聖バルバラの門 (Πύλη τῆς μάρτυρος Βαρβάρας, Pylē tēs martyros Barbaras)とも呼ばれるトルコ語ではトプ・カプス(Top Kapı大砲の門」)と呼ばれており、これがトプカプ宮殿の名の由来となっている。この門は海の城壁の中では珍しく黄金の門のように2つ大きな大理石塔に挟まれていた。ただこの大理石は、1816年マフムト2世娯楽施設メルメル・キュシュキュを建てるために持ち去った東門は、歴史上2回、東ローマ皇帝凱旋式入場門となった一度目は1126年ヨハネス2世コムネノスがカステラ・コムネノンを再征服したとき、二度目1168年マヌエル1世コムネノスハンガリーとの戦争勝利したときであった次の門は、トルコ語でデーイルメン・カプ(Değirmen Kapı製粉所の門」の意)と呼ばれている。ビザンツ時代の名称は不明である。すぐ北には、マヌエル1世コムネノスボスポラス海峡横断する防鎖一端として建設したマンガナの大塔があった。防鎖計画は、もう一端をクルソポリス(現ユスキュダル沿岸の島に立つ、現在少女の門(Kız Kulesi)としてしられる塔として海峡封鎖できるようにするというものだったが、おそらく実現したことはない。少女の塔は、ビザンツ時代にはダマリス (Δάμαλις)やアルクラ (Ἄρκλα)と呼ばれていた。 次の門はオスマン時代建てられたデミルカプ(Demirkapı 「鉄門」の意)である。ギリシア語名は知られておらず、ビザンツ時代に同じ場所に門があったかどうかも不明である。デーイルメン・カプとデミルカプの背後広がるマンガナ地区 (Μάγγανα, 「武器庫」の意)には数多く修道院などの建築物がある。とくに有名なものとしては、マンガナの聖ゲオルギオス修道院、ハリストス・フィラントロポス教会、テオトコス・ホディゲトリア修道院、マンガナ宮殿挙げられる。マンガナ地区南境には4つ小門があり、2門で1組成していて、多く教会のために機能していたとみられる。これらの小門のうち2つ分の名が知られているが、それぞれどの門を差しているのかは確定していない。すなわち聖ラザロス小門 (πυλὶς τοῦ ἁγίου Λαζάρου, pylis tou hagiou Lazarou)と、ホディゲトリアの小門 (μικρὰ πύλη τῆς Ὁδηγητρίας, mikra pylē tēs Hodēgētrias)である。どちらも近くにある著名な修道院から名をとっている。また4つ内の一つは、ミカエル・プロトヴェスティアリオスの小門 (παραπυλὶς τοῦ Μιχαὴλ τοῦ πρωτοβεστιαρίου, parapylis tou Michaēl tou prōtovestiariou)という名だった可能性がある。 さらに南へ進み海岸線西向きに曲がる地点には、バルハネ・カプス(Balıkhane Kapı漁師小屋の門」の意)とアフルカプス(Ahırkapısı 「厩門」の意)という2つの門が存在する。これらの名は、この門から入ることができるトプカプ宮殿内の建物由来するビザンツ時代の名称は分かっていない。 次のコンスタンティノープル南東端にあたりブコレオン宮殿通じる門は、ビザンツ時代には、門の入り口をはさむライオン像ゆえにライオンの門 (ギリシア語: Πόρτα Λέοντος, Porta Leontos, ラテン語: Porta Leonis)、あるいは波止場描かれ動物たちの絵ゆえに熊の門 (πόρτα τῆς ἀρκούδας, porta tēs arkoudas) と呼ばれたトルコ語ではチャトラドゥカプ(Çatladıkapı壊れた門」の意)と呼ばれている。 ブコレオン宮殿の西には聖セルギオス・聖バッコス教会と、コンスタンティノープル南岸でもっとも東側の港がある。ここはユスティヌス2世 (在位: 565年578年)の皇后の名にちなみ、ソフィア港と呼ばれた。その名がつく以前は、ユリアヌスの港と呼ばれていた。教会前に一つ小門があり、そのすぐ後に、港に通じ大門がある。これはソフィアの門 (Πόρτα τῶν Σοφιῶν, Porta tōn Sophiōn)もしくは鉄門 (Πόρτα Σιδηρᾶ, Porta Sidēra)と呼ばれている。トルコ語では カドゥルガリマヌ・カプス(Kadırgalimanı Kapıガレー船団の港の門」の意)と呼ばれている。 次の門はコントスカリオンの門 (Πόρτα τοῦ Κοντοσκαλίου)である。この門は、砂で埋まったソフィア港の代わりに建設され同名の港に対応している現代ではクンカプス(Kumkapısı 「砂の門」の意)と呼ばれている。 海岸をさらに西に行くと、大規模なエレウテリウス港(テオドシウス港)があった。この地区はヴランガ (Vlanga)とも呼ばれたが、現在では土砂堆積してランガ・ボスタン(Langa Bostan)として知られている。そのすぐ東側には、トルコ語でイェニ・カプ(新しい門)として知られる城門がある。ラテン語碑文によれば、この門は447年地震の後に改修された。ビザンツ帝国後期言及されるユダヤ人の門」と同一であるとされている。 また港のすぐ西側にも、ダヴトパシャ・カプス(Davutpaşa Kapısı 「ダヴト・パシャの門」の意)がある。こちらは一般には、海の城壁コンスタンティヌスの城壁接続していたとされるアエミリアヌスの門 (Πόρτα τοῦ ἀγίου Αἰμιλιανοῦ, Porta tou hagiou Aimilianou)に比定されている。しかしジャニンは、実際2つ城壁接続点はダヴトパシャ・カプスよりもずっと西側にあったという異説述べている。 さらに西へ進むと、海岸線急に南へ向き変える。ここに立つのがプサマティアの門(Πόρτα τοῦ Ψαμαθᾶ/Ψαμαθέως, Porta tou Psamatha/Psamatheos)である。その名は同名地区由来し、現在はサマテャ門(Samatya Kapı)と呼ばれている。 さらに南西に、現在ナルルカプ(Narlıkapıザクロ門」の意)と呼ばれる門がある。ビザンツ時代の名称は不明であるが、有名なストウディオス修道院近くに門が存在したということは記録されている。

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