泉の門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:37 UTC 版)
「コンスタンティノープルの城壁」の記事における「泉の門」の解説
泉の門 (Πύλη τῆς Πηγῆς) という名は、壁外にあった著名な泉の聖母マリア教会にちなんでいる。現在のトルコ語名シリヴリ・カプス (Silivri Kapısı)は門の先にあるイスタンブール郊外のスリヴリ市にちなんでいるが、この呼び名の起源となる「セリンブリアの門」(Πύλη τῆς Συλημβρίας)という呼称は、1453年のビザンツ帝国滅亡直前から文献に現れている。泉の門は七角形の第35塔と第36塔の間にあり、ビザンツ後期に大幅に改築された。門の南側の塔には、1439年すなわちヨハネス8世パレオロゴス時代の改修を記録する銘が刻まれている。門のアーチは、オスマン時代に取り換えられている。1998年、門の下の地下から4/5世紀のレリーフと墓が発見された。 ファン・ミリンゲンは泉の門をビザンツ初期のメランティアスの門 (Πόρτα Μελαντιάδος)に比定しているが、最近の研究では、メランティアスの門とはコンスタンティヌスの城壁の門であるという説が主流である(先述)。 1261年7月25日にニカイア帝国の将軍アレクシオス・ストラテゴポウロスがコンスタンティノープルを奪回した際には、泉の門から入城している。
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