ケルコポルタ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:37 UTC 版)
「コンスタンティノープルの城壁」の記事における「ケルコポルタ」の解説
ビザンツ帝国の最期を目撃した歴史家ドゥーカスによると、1453年5月29日の朝、ケルコポルタ(Kerkoporta)という小門が誤って開け放たれていた。ここからまず50人ほどのオスマン兵がコンスタンティノープル市内に侵入した。まもなくオスマン兵が内壁の上に軍旗を立て、下のペリボロスにいるビザンツ部隊を攻撃し始めた。これにより防衛軍は大混乱に陥り、ついにコンスタンティノープルは陥落した。1864年、テオドシウスの城壁の北端に近い第96塔とポルフュロゲネトスの宮殿の間の部分の外壁に位置していた小門が発見され、ギリシャの歴史家A・G・パスパテスらによってケルコポルタに比定された。この説には、後のファン・ミリンゲンやスティーヴン・ランシマンといった歴史家たちも同意している。ただ、この時に発見された小門に対応する門が内壁に存在していた証拠が見つかっておらず(現在この付近の内壁は残っていない)、ケルコポルタはクセロケルコス門を指すとする説、またそもそもこの物語自体がドゥーカスの創作であるという説もある。
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