ケルサン・ギャツォとイェシェ・ギャツォ
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「ダライ・ラマ7世」の記事における「ケルサン・ギャツォとイェシェ・ギャツォ」の解説
後のケルサン・ギャツォは、6世の死去から2年後の1708年、スーナム・ダルギャを父に、ロサン・チョツォを母にリタンで生まれた。ダライ・ラマ3世がリタンの地に建立したトゥプテン・ジャンパリン僧院では、この子の優れた資質にたいへん驚いたと伝わっている。リタンのシャーマンも、新しく誕生する子は故ダライ・ラマの転生であるとの託宣を得ていた。やがてダライ・ラマ6世ツァンヤン・ギャツォの転生者がリタンに生まれたとの噂が広まった。ジュンガル部は使者を送って新ダライ・ラマ候補を獲得しようとし、ラサン・ハーンも同族たちがこの転生霊童を支持していると聞き及んでこれを座視できなくなった。そうした動きを避けるように、少年は父に連れられてデルゲへ行き、1716年、ココノール(青海湖)近くにあるクンブム・チャンパーリン寺(塔爾寺)に移され、そこで育てられた。そのクンブム寺において、ガワン・ロサン・テンペー・ギェンツェンから沙弥戒を受け、「ケルサン・ギャツォ」の法名を授けられた。清朝はこれに先立ち、ケルサン・ギャツォ少年のダライ・ラマ認定を保留にしたまま、1715年に使者を送ってクンブム寺に保護するよう命じていた。 清朝はチベットの混乱を避けるためラサン・ハーンを支持し、ケルサン・ギャツォ少年を反ラサン派から引き離して保護下に置いた。そして、ラサン派と反ラサン派との間を調停した。しかし、1717年、反ラサン同盟に基づくジュンガル部の軍がラサン・ハーンを奇襲、ジュンガル部の長ツェワンラブタンの軍はラサを占領した。ジュンガル軍はこの戦いで「偽のダライ・ラマを廃して、正統なダライ・ラマを即位させる」と宣伝してラサに向かったが、このときラサの人々は自ら城門を開けてかれらを迎え入れたと言われる。この戦いでラサン・ハーンは戦死し、チベットの人々に不人気であった傀儡ダライ・ラマ6世イェシェー・ギャツォは廃位された。 清の康煕帝はラサン・ハーンの救援要請を受けて1718年に援軍(第1次派遣軍)を出したが、サルウィン川の戦い(英語版)においてジュンガル軍によって壊滅的とも言える大敗北を喫した。ここで康煕帝は素早い変わり身を見せた。康煕帝はケルサン・ギャツォ少年を正統的なダライ・ラマ6世と認め(先代のツァンヤン・ギャツォをダライ・ラマと認めなかったためケルサン・ギャツォを6世とした)、清朝の爵位を与え、反ラサン派に対してはハン位を継承させることなどを条件としてグシ・ハーン王家の分家の当主たちを懐柔した上で、1719年から1720年にかけてジュンガル討伐のための第2次派遣軍を中央チベットに送ったのである。 清朝から正統的なダライ・ラマとして認められた少年と、グシ・ハーン一族の有力者のいずれもが清朝軍の側にあることを知ったジュンガル部は意気阻喪した。ラサに孤立したジュンガル軍は結局戦わずして潰走し、清はこうしてケルサン・ギャツォを引き連れてラサを占領した。これが世にいう1720年の清朝によるチベット平定である。この後、清のチベット支配が徐々に進んでいった。
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