ツェワンラブタン
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ツェワン・ラブタン (転写:Tsewang Rabtan, 漢語:策妄阿喇布坦) は、オイラット八部族聯合の一角ジューン・ガル部のホンタイジ (副王)[注 1]。ツェワン・アラブタン (Tsewang Arabtan)[1]とも。
注釈
- ^ [参考]「ハーン」、「ホンタイジ」、「タイジ」の称号はチンギス・ハーンの末裔にのみ名告ることが許され、ハーンは「カガン」の転化で王の意、ホンタイジは「皇太子」の音訳で副王の意、タイジは「太子」の音訳でホンタイジに次ぐ位とされる。ジュンガルの属するオイラットは伝統的に「タイシ」(「太師」の音訳) を称した。ジュンガル勃興まもなくはホシュートがオイラットを束ねた為、ハーンはホシュートの部族長が称し、オイラットはそれに次ぐ者としてホンタイジを第二代部族長バートル・ホンタイジが名告った。
- ^ [参考]「ハーン」、「ホンタイジ」、「タイジ」の称号はチンギス・ハーンの末裔にのみ名告ることが許され、ハーンは「カガン」の転化で王の意、ホンタイジは副王の意、タイジは「太子」の音訳でホンタイジに次ぐ位とされる。ジュンガルの属するオイラトは伝統的に「タイシ」を称した。ジュンガル勃興まもなくはホシュートがオイラトを束ねた為、ハーンはホシュートの部族長が称した。オイラトはそれに次ぐ者としてホンタイジを第二代部族長バートル・ホンタイジが名告り、その子孫が継承した。
- ^ [参考] 漢語:和卜多/科布多/和卜屯, 転写:qobdo。
- ^ [参考] 漢語:扎布堪河。
- ^ [参考] 漢語:達爾扎扎木揚, 転写:darja jamyang/dar rgyas ḥjam dbyaṅs。
- ^ [参考] 漢語:温春・台吉, 転写:ončun tayiji。
- ^ [参考] 漢語:丹済拉, 転写:danjila/bstan ḥdsin lḣa。
- ^ [参考] 漢語:杜爾伯特, 転写:dörbet。*若松は「デルベート」としている。
- ^ [参考] 漢語:額林哈畢爾噶/厄輪哈必爾哈(聖祖仁皇帝實錄-169)/依连哈比尔尕(普通話), 転写:erēn qabirгa。
- ^ [参考] 漢語:哈什・郭勒 (/普通話:喀什河)。
- ^ [参考] 漢語:烏蘭・烏蘇, 転写:ulaгan usun/ulān usu。
- ^ [参考] 恐らくこれが清側公式史料におけるツェワンの初登場。
- ^ [参考] 漢語:博囉塔拉, 転写:boro tala。
- ^ [参考] 漢語:烏朱穆秦, 転写:üǰümüčin。
- ^ 「貴い志のあるホンタイジ」の意[24]。
- ^ 1717年頃にダンジュンが死亡すると(ツェワンラブタンが殺したとされる)、ボトロクは、同系部族(オイラト)の一派ホイト部長のウイジェン・ホチューチと再婚、のちにアムルサナー(1723年 - 1757年。乾隆帝治世時のジュンガル・ホンタイジ)を生むことになる[29][30]。
- ^ [参考] 漢語:車臣, 転写:čečen。
- ^ [参考] 漢語:卓特巴・巴図爾, 転写:ǰodba batur。
- ^ [参考] 漢語:僧格, 転写:sengge。
- ^ [参考] 漢語:噶爾丹, 蒙語転写:galdan, 蔵語転写:dgaḥ ldan。
- ^ [参考] 漢語:索諾木・阿喇布坦/索諾木・喇卜灘, 蒙語転写:sonom arabtan, 蔵語転写:bsod nams rab brtan。
- ^ [参考] 漢語:丹津・俄木布/丹津・鄂木布, 蒙語転写:danjin ombu, 蔵語転写:bstan ḥdsin dbon po。
- ^ [参考] 漢語:阿海, 蒙語転写:aqai。
- ^ [参考] 漢語:阿奴・喀屯, 転写:anu qatun。カトゥンは蒙語で王妃の意。
出典
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- ^ a b 欽定平定準噶爾方略. ブリタニカ・ジャパン . "中国、清朝の乾隆帝の東トルキスタン征服の歴史を記した書物。172巻。傳恒らの奉勅撰、乾隆 35 (1770) に成る。満文と漢文の両種がつくられた。"
- ^ a b c Посольство къ Зюнгарскому Хунъ-Тайчжи Цэванъ-Рабтану капитана отъ артиллерии Ивана Унковского и путевой журналъ его за 1722-1724 годы.. モスクワ: -. (1887)
- ^ a b 最後の遊牧民族 ジューンガル部の興亡. 講談社選書メチエ. p. 208
- ^ 三. モンゴル・オイラット法典. “ガルダン以前のオイラット - 若松説再批判”. 東洋学報: 96-108.
- ^ a b c d e f g h 二.. “〈論説〉ツェワン・アラブタンの登場”. 史林: 55-57.
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- ^ “康熙19年8月15日”. 聖祖仁皇帝實錄. 91. -. "○厄魯特噶爾丹博碩克圖汗遣使進貢……"
- ^ a b c d e Ratnabhadra (1959). Rabǰamba Cay-a bandida-yin tuquǰi saran-u gerel kemekü ene metu bolai. ウランバートル: Эрдэм Шинжилгээний хэвлэх
- ^ a b c d 三.. “〈論説〉ツェワン・アラブタンの登場”. 史林: 57-60.
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- ^ a b c d e f 四.. “〈論説〉ツェワン・アラブタンの登場”. 史林: 60-64.
- ^ “康熙28年12月9日段16115”. 聖祖仁皇帝實錄. 143. -. "目下、朕遣尚書・阿喇尼、使於噶爾丹。據其所奏言、噶爾丹敗於策妄阿喇布坦、下人散亡略盡。又極饑窘、至以人肉為食。喇嘛使人、亦曾到彼、想亦聞之耶。"
- ^ 富察, 傅恒 (乾隆35(1770)). 欽定平定準噶爾方略. -
- ^ “康熙29年4月3日段16205”. 聖祖仁皇帝實錄. 145. -
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- ^ Smith, Warren W. (1997) (英語). Tibetan nation: a history of Tibetan nationalism and Sino-Tibetan relations. Westview Press. ISBN 978-0-8133-3155-3
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- ^ a b “ジュンガル”. 改訂新版 世界大百科事典. 平凡社
- ^ 二.「王国」と「ハーン国」. “ガルダン以前のオイラット - 若松説再批判”. 東洋学報: 93-96.
- ^ a b 最後の遊牧民族 ジューンガル部の興亡. 講談社選書メチエ. p. 216
- ^ 宮脇淳子 1995, p. 229.
- 1 ツェワンラブタンとは
- 2 ツェワンラブタンの概要
- 3 親族姻戚
- 4 参照文献
- 5 関連項目
ツェワンラブタン
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ツェワンラブタンはすでにダライ・ラマ5世から「エルデニ・ジョリクト・ホンタイジ」の称号と、鉄の菊印の印璽を与えられていたが(1694年)、ガルダンの死去によって正式なジュンガル部長となった。ツェワンラブタンはカザフ草原や中央アジアのオアシスを侵略する一方、清朝とは一時的に友好的な関係であったが、1715年にクムル・トルファンで衝突が起こって以降、戦争状態となった。 ジュンガルはツェワンラブタン統治下、ロシア経由で工業化も進めた。北方戦争でロシアの捕虜となったスウェーデン人砲兵士官ヨハン・グスタフ・レナットはイリで1732年まで軍事技術供与に携わっている。1715年、ツェワンラブタンはクムルを襲撃するが、失敗する。追撃する清軍は翌1716年、敦煌、クムル、バリクルに屯田を開く。
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