ツェワング・パルジョール
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「グリーンブーツ」の記事における「ツェワング・パルジョール」の解説
グリーンブーツは、インド人登山家ツェワング・パルジョールであると広く信じられており、彼は2人の同僚とともに1996年に登頂を試みた日にコフラック社製の緑のブーツを履いていたが、可能性としては彼と同じ登山隊のメンバーであったドルジェ・モルップ (Dorje Morup) だとも考えられる。1996年のエベレスト大量遭難では、8人の遭難死者が出たが、その中には南東ルートを進んだアドベンチャー・コンサルタンツ隊やマウンテン・マッドネス(英語版)隊の5人のほか、北東ルートをとった3人が含まれていた。この3人は、インド・チベット国境警察(英語版) (ITBP) が派遣したインド隊の登山家たちであった。この遠征隊を率いていたのは、モヒンダール・シン隊長 (Commandant Mohinder Singh) で、彼は東側からエベレストに登頂した最初のインド人であった。 1996年5月10日、ツェワング・サマニア大尉 (Subedar Tsewang Samanla)、ドルジェ・モルップ上等兵 (Lance Naik Dorje Morup)、ツェワング・パルジョール曹長 (Head Constable Tsewang Paljor) の3人が、山頂を目前にして吹雪に襲われた。6人の登頂隊のうち3人は撤退したが、サマニア、モルップ、パルジョールは、そのまま登頂を目指した。ネパール標準時で 15:45 ころ、3人は山頂に達したと無線で隊長に報告した。彼らは山頂に、タルチョーやハタ(英語版)、ハーケンを捧げ物として残した。ここでリーダーのサマニアは、宗教的儀式のために時間の余裕を使うことを決め、他の2人には下山を指示した。 その後、無線は途絶した。直下のキャンプでは、隊員たちが、標高8,570メートル (28,117 ft)の第2ステップのやや上方を下山する2人のライトを目視した。しかし、3人はいずれも、標高8,300メートル (27,231 ft)に設けられていた前進キャンプまで帰還することができなかった。 後に、この遭難をめぐって、福岡チョモランマ登山隊の日本人登山者たちが、行方不明となったインド隊の隊員たちの救助を怠ったのではないかとして論争が起こった。福岡隊は、標高8,300メートル (27,231 ft)に設けた彼らのキャンプを、中国標準時 06:15 に出発し、15:07 に登頂へ到達した。その途中で、彼らは他の登山者たちに遭遇していた。彼らは、インド隊に行方不明者が出ていることは知らず、皆フードの下にゴーグルと酸素マスクを着けていたこの登山者たちを、台湾隊のメンバーだと思い込んでいた。15:30 から下山を始めた福岡隊は、第2ステップの上方で何かわからない物体が見えると報告した。第1ステップの下方では、ひとりの人間が固定ロープにいると無線で報告した。その後、福岡隊の一員だった重川英介は、近くに立っていた正体不明の男性に声をかけて挨拶した。この時点で、福岡隊が持っていた酸素は、第6キャンプに引き返す分しか残ってなかった。 16:00 に至り、福岡隊は、隊に参加していたインド人のひとりから、3人が行方不明になっていることを知らされた。福岡隊は、救助への参加を申し出たが、断られた。天候の悪化で、更に1日待った後、福岡隊は5月13日に第二次登頂隊を送り出した。彼らは、第1ステップ付近で複数の遺体を見かけたが、そのまま山頂を目指した。 その後、様々な誤解も重なり、福岡隊の行動について厳しい非難もなされたが、後には誤解は解けた。ロイターは、福岡隊は行方不明者の捜索に協力すると言っておきながら登頂に進んだ、とインド隊が非難したと報じた。福岡隊は、登頂の途中で、死にかけている登山者を見捨てたり、救援の求めを拒むようなことはしていないと、報道を否定し、この主張はインド・チベット国境警察にも受け入れられた。インド山岳連盟 (the Indian Mountaineering Federation) の役員であるコーリ大尉 (Captain Kohli) は、5月10日の時点で福岡隊はインド人と会ったと報告していたとして一旦は福岡隊を非難したが、後にそれを撤回した。
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