ガルダンツェリン
ガルダンツェリン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 02:03 UTC 版)
ガルダンツェリン(Galdan Tseren、中国語:噶爾丹策零、生年不詳 - 1745年)は、ジュンガルのホンタイジ。父で先代のツェワンラブタンが死亡した1727年以降、1745年に死亡するまで在位した。
注釈
- ^ 1750年、長庶子ラマダルジャがツェワンドルジ・ナムジャルを捕縛、幽閉し、のちに殺害。ツェワンラブタンの外孫でホイト部長のアムルサナー、バートル・ホンタイジ の玄孫ダワチが幼弟モンクシをホンタイジに担ごうとするが、ラマダルジャがモンクシを殺害。1752年、アムルサナーとダワチはラマダルジャを殺害し、ダワチがジュンガル部長、ホンタイジに就いた[12]。
出典
- 1 ガルダンツェリンとは
- 2 ガルダンツェリンの概要
- 3 参考文献
- 4 関連項目
ガルダンツェリン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 08:34 UTC 版)
ツェワンラブタンの子であるガルダンツェリンは継母を毒殺の罪で処刑し、その子のロブサンショノを追い出すと、ジュンガル部長となり、ホンタイジの位に就いた。ガルダンツェリンは父の遺志を継ぎ、カザフ草原やシル川流域、フェルガナ、バダフシャーンに侵攻した。1731年には漠北のモンゴル高原に侵入し、ホブド(科布多)の西で清軍を破り(ホトン湖の戦い)、ハルハ各地を侵犯した。翌年、ジュンガル軍は再びハルハに侵入したが、親王ダンジンドルジとエフ・ツェリン率いるハルハ軍に大敗した。1739年、ハルハ部とオイラト諸部の間で境界が画定され、お互いアルタイ山脈を越えないことを約束した。 モンゴル高原の領有は失敗したものの、東方の脅威が無くなったため、ガルダンツェリンは西方攻略に専念できた。当時三つのジュズに分かれていたカザフ・ハン国は頻繁にジュンガルの侵攻を受けたため、1740年にロシア帝国に庇護を求めた。これによってカザフ草原へのジュンガル侵入は止んだが、ジュンガルの別動隊が中央アジアのタシュケントとトルキスタンを占領し、コーカンド・ハン国に侵入してバダフシャン王子をイリに連れて行った。
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