撤駅の変において清朝に忠節を尽くす
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「ジェプツンタンパ2世」の記事における「撤駅の変において清朝に忠節を尽くす」の解説
ハルハの西の隣国オイラトでは、盟主であるジュンガル部の当主ガルダンツェリンが1745年に没したのち、首長家の間で後継者を巡る争いが勃発し、内乱状態となった。清朝の乾隆帝はこれを好機と見て、1755年オイラトに出兵、これをあっけなく制圧した。ホイト部(オイラトの構成部族のひとつ)のアムルサナーは清朝のオイラト制圧に大いに協力したが、恩賞の沙汰が期待したほどでなかったため、1757年から1758年にかけて反清独立闘争を起こしたのち、敗北した。 ハルハでは、アムルサナーの決起に合わせて右翼のチングンザブが蜂起した。彼は清朝がハルハに課した哨探や駅站の任務蜂起を呼びかけたので、彼の蜂起は「撤駅の変」と呼ばれた。ジェプツンタンパ2世はハルハに対しチングンザブに加担しないよう影響力をふるい、この変が短期間で鎮圧されることに貢献した。これにより「敷教安衆喇嘛」の号を与えられた。 ジェプツンタンパ2世は母方でチングンザブと縁戚であり、チングンザブの助命を図ったが、果たせなかった。 オイラトにおいて清朝によるアムルサナーの平定戦が続いている最中、ハルハにおいて天然痘が流行、ジェプツンタンパ2世はこれに罹患し、1758年2月5日に没した。
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