ジュンガルと清の戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 19:33 UTC 版)
1688年、ジュンガルは東モンゴリア(外モンゴル)のハルハ部に侵攻する。敗れたハルハ部のトシェート・ハーンは清の康熙帝に保護を求めた。1690年にはガルダンの甥のツェワンラブタンが反乱を起こし、イリ地方とタリム盆地を制圧して清と結ぶ。 ガルダンは南へ進軍中の1690年9月、ウランプトゥン(ウラン・ブトン、遼寧省赤峰市)で清軍と衝突する(ウラン・ブトンの戦い)。ジュンガル軍はロシア製の大砲を装備していたが決着がつかず、ガルダンは漠北へ退いた。1693年にはハミのダルハン=ベク、アブド=アッラーらはジュンガルの搾取を嫌い、清に接近した。1696年、康熙帝はジュンガル親征を開始し、ガルダンをチャオモード(昭莫多)で破った(ジョーン・モドの戦い(ロシア語版))。敗走したガルダンは1697年4月4日にアルタイ山脈北のコプトで病死した。ガンダルの息子タンチラはハミに亡命したがアブド=アッラーによって捕らえられ、清に渡され、翌年ハミ地区は清の版図となった。 ジュンガルはツェワンラブタン統治下、ロシア経由で工業化も進めた。北方戦争でロシアの捕虜となったスウェーデン人砲兵士官ヨハン・グスタフ=レナットはイリで1732年まで軍事技術供与に携わっている。1715年、ツェワンラブタンはハミを襲撃するが、失敗する。追撃する清軍は翌1716年、敦煌、ハミ、バリクルに屯田を開く。
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