ジュンガル問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 20:02 UTC 版)
ピョートル1世の治世には、摂政ソフィア・アレクセーエヴナと顧問のヴァシーリー・ゴリツィンが実権を握っており、清・ジュンガル戦争(第一次、1687年 - 1697年)中であった清の康熙帝は、1689年8月27日にソンゴトゥ(索額図)を派遣してロシアとの間でネルチンスク条約を締結した。この中国が有利な条約をフョードル・ゴロヴィンが持ち帰ると、9月にはソフィアとゴリツィンは失脚し、ナタリヤ・ナルイシキナが実権を掌握した。 ピョートル1世が親政を始めると、清が望むジュンガル・ホンタイジ国の孤立化を図るとともに、クリミア・ハン国や東方のタタールとの緩衝地帯形成を目的として、1719年11月23日に人口希薄なヴォルガ川沿岸の空白地(カルムイク・ハン国(英語版)、1630年 - 1771年)の耕作地へドイツ人(後のヴォルガ・ドイツ人)の移民誘致政策を開始して農奴制を強化し始めた。
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