ジュンガルの侵攻と清朝による青海出兵
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「チベットの歴史」の記事における「ジュンガルの侵攻と清朝による青海出兵」の解説
グシ・ハン一族が支えたダライ・ラマ政権は、18世紀初頭、ダライ・ラマ5世の後継者を誰とするかをめぐって内紛を起こし、オイラト本国(ジュンガル部)や清の介入をまねいた。1717年、オイラト本国を支配するジュンガル部の奇襲により嫡系が断絶。1718年と1720年-1721年に清朝の康煕帝は「ダライラマを擁するグシハン一族」という政体の復活を目指し、介入する。 グシ・ハン一族によるチベット東部の支配形態には、数年任期の代官を派遣して統治にあたらせる直轄領と、古くからの歴史をもつ諸侯に貢納させ、所領の安堵や内紛の調停を行う諸侯領とがあったが、中国において清朝の支配が確立すると、中国との隣接地方に位置する諸侯の中には、領主の跡目争いや内紛などで、清朝に頼ろうとするものがでてくるようになり、17世紀後半より、チベットと中国の境界地方では、グシ・ハン一族と清朝地方官の小競り合いがみられるようになった。清朝側では、グシ・ハン一族のチベット諸侯への支配について、「本来『内地』に属するはずの番人たちが、不当に蒙古の支配を受けている」という立場をとっていた。 1720年、ジュンガルの侵攻に対する救援を名目に康熙帝が介入した際には、リタン、バタンの有力者たちを「招撫」(清朝の支配下に入るようもとめること)し、また雍正帝はカム地方に地方官を派遣し、カム地方の諸侯に清朝の冊封を受けるようもとめ、拒否するものは天子に戦を仕掛けたものと見なすと威嚇、グシ・ハン一族から抗議をうけている。
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