ジュンガル時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 17:46 UTC 版)
ジュンガル部がドルベン・オイラトの中心となって勢力を拡大した時代、ジュンガル・ホンタイジ配下の有力部族長としてホイト部のアムルサナがいた。乾隆19年(1754年)、ジュンガルの覇権を巡ってダワチと争い敗れたアムルサナは清朝に投降し、清朝によるジュンガル遠征を手助けした。当初、アムルサナの清朝への協力の見返りとして征服後のジュンガル統治はアムルサナ一人に任されることが約束されていたが、この約定は反故とされジュンガルの旧領はチョロース(ガルサンドルジ)・ドルベト(ツェリン)・ホシュート(バンジュル)・ホイト(アムルサナ)四部の統治者によって分割統治されることとなった。 これに不満を抱いたアムルサナは清朝による招集で熱河に向かう途中で清朝の護衛より逃れ、イリ地方で清朝に叛旗を翻した。清朝より遠征軍が派遣されるとアムルサナは一時カザフの中ジュズに逃れ、さらにロシア帝国の援助を求めてシベリア地方まで移住した。しかしジュンガルと清朝の争いに不介入の方針をとっていたロシアの協力は得られず、最後には天然痘によりトボリスクで病死した。アムルサナがロシア領まで逃れてから死んでしまったことは、アムルサナの身柄(後には遺体)の受け渡しを巡るロシア・清朝間の外交問題を引き起こしている。 清朝のもたらした天然痘の流行、アムルサナの叛乱と逃亡によってホイト部は打撃を受け、トルグート部やホシュート部のように単独で1部を維持することはできず、清朝の統治下で少数の旗(ホショー)が残るのみとなった。
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