ケルキラ島砲撃と占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 21:36 UTC 版)
「コルフ島事件」の記事における「ケルキラ島砲撃と占領」の解説
しかしギリシャ政府の態度はイタリア政府や世論を満足させるものではなかった。8月30日にギリシャ政府が正式に全面的拒否通告を行うと、ムッソリーニは即座にイタリア王国海軍(en:Regia_Marina)の艦隊をケルキラ島に向かわせるよう命令した。艦隊を指揮していたエミーリオ・ソラーリ提督は、8月31日の午前中に同島付近に到着してその後占拠する予定を立てていたが、予定は大幅に遅れ、艦隊がケルキラ島に到着した頃には夕刻に迫っていた。占拠を焦った艦隊は同島にいたギリシャ人難民に砲撃を加え、複数の犠牲者を出した。その後ケルキラ島と隣接する二つの小島は海兵隊によって占拠されたが、占領に伴った惨事はイタリアに対して抱かれていた各国の同情心を失わせた。
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