統治の終焉と死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 23:13 UTC 版)
「ムーレイ・イスマーイール」の記事における「統治の終焉と死去」の解説
ムーレイ・イスマーイール治世の終焉は、相続に関連する軍事的失策と家族の問題によるものと記されている。1692年5月、イスマーイールはオスマン帝国領アルジェリアを攻撃するため息子のムーレイ・ゼイダンに大軍を送った。ゼイダンは、反撃でフェズまで行軍してきたオスマン帝国に敗れた。イスマーイールはアルジェのデイ (オスマン帝国)に降伏を申し出て、和睦するためアルジェに使節団を派遣するしかなかった。かくして彼はアルジェ王国との国境をムールーヤ川に固定した。1693年、イスマーイールはオラン地域を襲撃し、ベニ・アムールの略奪を試みて、こちらは成功した。オラン市は2度の攻撃に抵抗し、スルターンを退却させた。この時、和睦を結ぶ使節を派遣したのはトルコ側で、オスマン帝国のスルターンであるアフメト2世が主導した。1699年、イスマーイールはマグレビ戦争に参加し、ベイリク西部を占領することに成功、約5万の兵士とシェリフ川まで進軍したが、彼の軍隊は1701年のシェリフの戦いでアルジェリア人によって食い止められた イスマーイールは4万人の兵士でセウタ市の包囲を試みたが、スペイン軍の抵抗は頑強で包囲は延々と続いた。イスマーイール軍の一部も1694年から1696年までメリリャを包囲したが、都市の要塞は同軍にとって大きすぎた。1701年春、イスマーイールはアルジェリアに対する別の遠征を開始した。モロッコ軍はオスマン帝国軍に妨害される前にシェリフ川に進軍。兵士1万人強を擁するアルジェリア軍は、どうにかモロッコ軍の兵士6万人を打ち破った。モロッコ軍は大敗し、混乱に陥った。イスマーイール自身も負傷し、かろうじて脱出した。モロッコ兵士3000人とモロッコ軍指導者50人がアルジェに連行された。1702年、イスマーイールは息子のゼイダンに兵士12,000人の軍隊を与え、ペニョン・デ・ベレス・デ・ラ・ゴメラを占領するよう指示した。 モロッコ軍はスペインの要塞を破壊したが、ラ・イスレタを保持できなかった。その間、イギリスの提督ジョージ・ルークがセウタの包囲に加わり、1704年に港を封鎖した。 1699年から1700年にかけて、イスマーイールはモロッコ各地を我が子たちに分配した。ムーレイ・アフマドにはタドラ県と3,000人の黒人親衛隊(アビド・アル=ブハーリー)を担当させた。ムーレイ・アブドゥルマリクにはドラア県とカスバ(都市城塞)と1,000人の騎兵が託された。ムーレイ・ムハンマド・アル=アラムはスースと3,000人の騎兵を受託した。ムーレイ・エル=マムーンはシジルマッサの指揮と500人の騎兵を受け取った。ムーレイ・ゼイダンはシェルグの指揮を引き受けたが、オスマン帝国が攻撃してイスマーイールが彼らと和平を結んだことで、ゼイダンはそれを失った。この国土分割はイスマーイールの息子達に嫉妬と競争を引き起こし、時にはあからさまな衝突に発展した。ある衝突では、ムーレイ・アブドゥルマリクが自分の兄弟ムーレイ・ナスルに敗北し、ナスルがドラア県全体を支配することになった。アブドゥルマリクの代わりとして父(イスマーイール)からドラアの首長に任命されたのはムーレイ・シャリーフで、彼がナスルからこの地域の奪還に成功した。 息子ゼイダンがスルターンとして父親の跡を継ぐことを望んでいた本妻ララ・アイシャ・ムバルカの陰謀、中傷、反対に応じてイスマーイールの長男ムーレイ・ムハンマド・アル=アラムがスースで反乱を起こし、1703年3月9日にマラケシュの支配権を握った。ゼイダンが軍隊と共に到着すると、アル=アラムはタルーダントに逃亡した。ゼイダンはその場所を包囲して1704年6月25日に捕らえると、7月7日に彼をウード・ベト(モワヤンアトラス山脈にある川)に連行した。アル=アラムは、父親のイスマーイールに片手片腕を切断されて厳罰に処され、彼がシャリーフであることを根拠にアル=アラムの流血沙汰を拒んだ刑罰執行者とそれに同意した者達が処刑された。イスマーイールはその後、アル=アラムによる都市獲得の責任を担当していたマラケシュのカイードを例外的な暴力で排除した。7月18日、父親の予防策も実らず、アル=アラムはメクネスで自殺した。ゼイダンがタルーダントで実行した残虐行為(特に街の住民虐殺)の事を知るや、1707年にイスマーイールは彼を殺害するよう組織し、酔い潰れて前後不覚になった時にゼイダンの妻たちが彼を絞殺した。ムーレイ・ナスルもスースで反乱を起こしたが、イスマーイールへの忠義が残っていたウーラド・デリム族によって最終的に殺された。 これ以上のトラブルを防ぐため、イスマーイールは息子達に授けた長官職を取り消したが、例外としてムーレイ・アフマドはタドラの首長としての地位を維持し、ムーレイ・アブドゥルマリクはスースの首長となった。アブドゥルマリクは独立した絶対君主のように振る舞って敬意を払うことを拒否したため、イスマーイールが継承順序の変更を決定したところ、これはアブドゥルマリクの母親がもはや彼と親密ではなかったことで支持された。アブドゥルマリクは遅ればせながら謝罪したが、イスマーイールはその息子に敵意を抱き続けた。その結果、イスマーイールは自分の後継者としてムーレイ・アフマドを選んだ。 1720年、スペイン継承戦争で大同盟を支援していたモロッコに対して報復したいと考えていたフェリペ5世 (スペイン王)は、1694年以来続いていたセウタ包囲を止めさせるためレーデ侯爵指揮下の艦隊を派遣し、モロッコ軍にこの都市奪還を諦めるよう強制した。このスペイン艦隊はどうにか包囲を止めさせたが、リード侯爵がスペインに戻った後の1721年にイスマーイールはそれを再開した。スルターンはさらにスペイン侵攻に向けた大規模艦隊を計画したが、1722年の嵐によって潰えた。セウタの包囲はイスマーイールが死去する1727年まで継続された。 ムーレイ・イスマーイールは1727年3月22日に死去し、享年は81歳、下腹部の膿瘍が死因とされている。彼の統治期間は55年間に及び、モロッコ君主として最長の統治である。彼の跡を継いだのはムーレイ・アフマドだった。黒人親衛隊による反乱の結果、この帝国はすぐに内戦に陥った。1727年から1757年の間に7人以上の王位主張者が権力を掌握し、うち数名がこれを繰り返しており、ムーレイ・アブドゥッラーに至っては6度復位した(この時期の王位継承はモロッコの君主一覧#アラウィー朝を参照)。
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