日本統治初期とは? わかりやすく解説

日本統治初期(1895年 - 1919年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 03:07 UTC 版)

高雄の歴史」の記事における「日本統治初期(1895年 - 1919年)」の解説

台湾総督府設置され当初台湾統治政策確定されておらず。清朝制度参考1895年6月に3県(台北台湾台南)1庁(澎湖)を設置し県庁の下に12支庁を設置した当時高雄地区台南県鳳山支庁属していた。 日本統治初期、日本人高雄地区小規模な港湾都市建設計画していたが、1908年日本東南アジア進出のための基地として近代港湾設置されることとなった。また1900年には縦貫線打狗台南開業すると、港湾に近い哈瑪星日本語の「浜線」の音訳)と塩埕埔(現在の塩埕一帯開発急速に進捗し1941年高雄駅市内東部移設され、市街地東側の大港埔一帯拡大これに伴い旗后地区衰退していった。 高雄港総督府により拡充工事が行われ、近代化港湾ツォいて対外貿易経営収支成長していった。1907年対外貿易額は1億円を突破、全台湾貿易総額半分近く占めるに至り1934年には貿易額は2億円を、1937年には3億円を突破している。当時高雄港基隆港に次ぐ台湾第2の商港として、日本対し米、砂糖バナナパイナップル缶詰などの農業製品輸出し肥料を主に輸入していた。 教育面では総督府は在1898年に旗后及び打狗地区最初台湾人対象とした学校打狗公学校現在の旗津国小)を設立した。日本統治初期の旗津市政上で重要な地位占めていた。管轄する大竹里内塩埕荘、烏旗津街、中洲及び興隆里内哨船頭街、塩埕埔が位置していた。1920年高雄街が設置されると街役場哨船頭設置されその後10年にわたり旗后が高雄市政の中心地となっていた。1925年日本式地名への改称が行われた際には旗津には旗津、平和、緑の3町が設置されている。 工業面では高雄工業伝統的な製糖業中心となっていた。日本統治初期、打狗港建設及び製糖業への需要から近代的な機械工業萌芽した。1915年島内近代建築需要応えるべく、寿山浅野セメント株式会社石灰石採掘着手し半世紀越え高雄コンクリート製造業もこの時代基礎築かれている。

※この「日本統治初期(1895年 - 1919年)」の解説は、「高雄の歴史」の解説の一部です。
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