日本統治初期(1895年 - 1919年)
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「高雄の歴史」の記事における「日本統治初期(1895年 - 1919年)」の解説
台湾総督府が設置された当初は台湾統治政策は確定されておらず。清朝の制度を参考に1895年6月に3県(台北、台湾、台南)1庁(澎湖)を設置し県庁の下に12支庁を設置した。当時の高雄地区は台南県鳳山支庁に属していた。 日本統治初期、日本人は高雄地区に小規模な港湾都市の建設を計画していたが、1908年に日本東南アジア進出のための基地として近代港湾が設置されることとなった。また1900年には縦貫線打狗=台南間開業すると、港湾に近い哈瑪星(日本語の「浜線」の音訳)と塩埕埔(現在の塩埕)一帯の開発が急速に進捗し、1941年高雄駅も市内東部に移設され、市街地は東側の大港埔一帯に拡大、これに伴い旗后地区が衰退していった。 高雄港は総督府により拡充工事が行われ、近代化港湾ツォいて対外貿易の経営収支は成長していった。1907年の対外貿易額は1億円を突破、全台湾の貿易総額の半分近くを占めるに至り、1934年には貿易額は2億円を、1937年には3億円を突破している。当時の高雄港は基隆港に次ぐ台湾第2の商港として、日本に対し米、砂糖、バナナ、パイナップル缶詰などの農業製品を輸出し、肥料を主に輸入していた。 教育面では総督府は在1898年に旗后及び打狗地区で最初の台湾人を対象とした学校、打狗公学校(現在の旗津国小)を設立した。日本統治初期の旗津は市政上で重要な地位を占めていた。管轄する大竹里内の塩埕荘、烏松、旗津街、中洲及び興隆里内の哨船頭街、塩埕埔が位置していた。1920年に高雄街が設置されると街役場は哨船頭に設置され、その後10年にわたり旗后が高雄市政の中心地となっていた。1925年に日本式地名への改称が行われた際には旗津には旗津、平和、緑の3町が設置されている。 工業面では高雄の工業は伝統的な製糖業が中心となっていた。日本統治初期、打狗港建設及び製糖業への需要から近代的な機械工業が萌芽した。1915年、島内の近代建築の需要に応えるべく、寿山に浅野セメント株式会社が石灰石の採掘に着手し、半世紀を越える高雄のコンクリート製造業もこの時代に基礎が築かれている。
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