日本統治時代 1941年 - 1945年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 15:08 UTC 版)
「香港の歴史」の記事における「日本統治時代 1941年 - 1945年」の解説
詳細は「日本占領時期の香港」を参照 1941年(民国30年)12月8日に、イギリスの植民地下にあったマレー半島のイギリス軍に対する日本陸軍の攻撃(マレー作戦)により太平洋戦争が勃発すると、同日酒井隆中将指揮下の陸軍第23軍も、同じくイギリスの植民地である香港のイギリス軍に対する侵攻を開始した(香港の戦い)。 日本軍は九龍半島にあるイギリス連邦軍の要塞地帯の「ジン・ドリンカーズ・ライン(en:Gin Drinkers Line)」を突破、12月13日には九龍半島を制圧したが、その後香港島内でイギリス連邦軍は地の利を生かしたゲリラ戦法を行い、日本軍はこれに苦戦している。しかし、12月25日に香港島唯一の貯水池を奪われたマーク・ヤング総督は、九龍にあるイギリス資本のペニンシュラ・ホテル(香港半島酒店)に出向き、日本軍に降伏した。戦後イギリスの植民地に復帰して以降、香港政庁はこの日を「暗黒のクリスマス(Black Christmas)」と呼んでおり、香港が中華人民共和国に返還/譲渡された現在もそのまま呼ばれている。 イギリスの植民地であった香港を統治することとなった日本は当初、イギリス政府が運営する香港政庁に代わる統治機関として、酒井中将を長官とする香港軍政庁を設置し、1942年(民国31年)2月には磯谷廉介中将を香港総督に任命して軍政実施した。 日本軍政府は、これまでイギリスの植民地下で全てがイギリス式に統治されていた香港で脱イギリス化政策を実施し、これまでイギリスが香港における公用語としていた英語の使用を禁止して、代わりに日本語の使用を指導した(広東語の使用は継続された)。上記のペニンシュラ・ホテルを接収した後に「東亜ホテル」と改称して総督府を設置したほか、「ネイザンロード」のようなイギリス式の主要地名を「香取通り」のような日本式の地名に改称しイギリス色を払拭するよう努めた。日本軍は、1942年3月にイギリス軍の専用空港であった啓徳空港の滑走路の延長など設備の拡充を行った。 軍政府はこれまでの香港ドルに代わる貨幣として軍票を大量に発行し、無計画に流通させたために香港経済に深刻なインフレーションを引き起こした。さらにこれまで香港を支配していたイギリス系企業や銀行が営業を停止したことや、戦時体制下で日本と戦闘状態にあった中華民国本土との貿易が大幅に減少したのみならず、イギリスの植民地が多くを占めていた東南アジアやオーストラリアなどとの貿易が完全に止まったために、香港は経済的苦境に立たされる。その後日本軍の占領下の香港から70万人前後の中国人住民が中国本土に退去し、占領前に160万人の人口を抱えていた香港は、1945年(民国34年)8月の日本の降伏の時点では人口が60万人程度にまで減少した。この3年8か月間にわたる日本統治時期を香港では「三年零八個月」と呼んでいる。なお日本軍政府により発行された軍票は、日本の敗戦に伴いイギリス軍の命令により無価値とされ、現在も日本に経済的補償を要求する香港人も存在する。
※この「日本統治時代 1941年 - 1945年」の解説は、「香港の歴史」の解説の一部です。
「日本統治時代 1941年 - 1945年」を含む「香港の歴史」の記事については、「香港の歴史」の概要を参照ください。
- 日本統治時代 1941年 - 1945年のページへのリンク