日本統治時代の抗日組織などの軍服
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「軍服 (朝鮮半島)」の記事における「日本統治時代の抗日組織などの軍服」の解説
朝鮮系抗日組織の多くは、国内での活動がままならず大陸を軍事拠点とした。従って、軍服もその拠点とした地域における援助組織の影響を色濃く受けている。例えば、初期の東北部を拠点とした独立軍諸派は中国北洋陸軍風、あるいはソ連赤軍風の軍服を着用しているケースが多く見受けられる。 中国国民革命軍の訓練を受けた朝鮮義勇隊は、略帽や軍衣は国民革命軍の民国18年制式や民国24年制式を供与された。 韓国光復軍の軍装は、朝鮮義勇隊と同様に国民革命軍と同じ軍装であったが、略帽は青天白日章の代わりに太極章を付けていた。この帽章は1943年、五芒星を太極章と葉で囲んだ図式へと変更される。大戦末期になると、米軍装備が中国軍に普及されたことを受け、M41ジャケット(英語版)やアイクジャケット、ジャックブーツなどを使用するケースも見受けられる。1945年2月 になると、光復軍は独自の制服を有した。この制服は折襟で、胸2点はプリーツ入り丸型の貼りポケット、腰2点はフラップとなっている。左胸に部隊章を付ける、左胸ポケットに万年筆用の穴があるなど国民革命軍の影響も残る。米軍式の制帽を使用、略帽は日本軍風の顎紐の付いた戦闘帽や日本の国民服用の様な耳当ての付いた戦闘帽、米軍式ギャリソンキャップを使用するようになる。兵科章は襟に着け、階級章は軍官は肩、下士卒は袖に付ける。階級呼称は大韓帝国時代を強く意識したものとなっている。制定からわずか半年で終戦となった事で調達が間に合わなかった、あるいは調達はされどそれを着用して記念写真を撮る余裕がなかったためか、この制服を一式着用している例は上級指揮官以外少なく、多くは米軍の軍装との混用や、日本軍や開拓団から鹵獲した被服を改造した事もあった。 一方、東北抗日聯軍などの共産党系抗日パルチザンは帝国陸軍の軍装ないし開拓団の協和服を鹵獲した、あるいはその影響を強く受けたと思われる制服を着用しており、98式軍衣を彷彿とさせる折襟の軍衣にサムブラウンベルト、赤い星の付いた戦闘帽といった出で立ちであった。しかし、こうした姿はプロパガンダ上好ましくないと判断されたのか、現在の抗日パルチザンを取り扱った各種宣伝芸術では、戦闘帽ではなく紅軍のようなハンチング帽に変えられている。女性兵士はソ連式のクラッシュキャップ、プリーツスカートであった。 独立軍兵士 金佐鎮および北路軍政署隊員。北洋陸軍風の襟章や肩章が見受けられる(1920年10月) 大韓民国臨時政府陸軍駐満参議府(朝鮮語版)隊員(1923年) 韓国光復軍将兵。国民革命軍と同一の軍装を着用しているが帽章は異なる(1940年9月、重慶) 韓国光復戦線青年工作隊。国民革命軍と同一の軍装もあれば中山装もある(1939年、柳州) 1945年制定の光復軍制服を着用した池青天総司令(中央)、金学奎(右) 光復軍制帽。李範奭 光復軍兵士。米軍風の野戦服を着用している。魯能瑞(朝鮮語版)、金俊燁(朝鮮語版)、張俊河(1945年8月) 光復軍指揮官。日本軍の戦闘帽風の帽子を被っている。李範奭 光復軍第2支隊隊員。(1940年) 光復軍兵士。制服を開襟にして着用し、米軍風のギャリソンキャップを被っている(1946年) 東北抗日聯軍の男女軍装。金日成、金正淑 モザイク画に描かれた東北抗日聯軍。比較的実際のものに近い女性兵士と比べ、男性兵士は紅軍のようなハンチング帽に変えられているのが分かる
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