旗后地区
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漢人が高雄地区に居住した最初の記録は1673年(康熙12年)のものである。最初の移住者である徐阿華など十数家は次第に勢力を拡大し集落を形成するようになり、1691年(康熙30年)には一定規模の漢人集落となり、戸数も20戸を越え、媽祖宮(現在の旗后天后宮の前身)などを建立していた。1726年(雍正4年)、オランダの宣教師が編纂した台湾の地図には旗后はHandelarrsと、旗后半島はSaracen Headとして出現している。1860年(咸豊10年)に北京条約が締結されると、旗后地区は通商の要衝となり、同治2年には旗后税関分所が設置され、打狗港は国際商港として発展していくこととなる。旗后の通山里一帯は物資の集散場所となり、洋行や商店が並ぶ、当時の高雄地区で最も発展した商業区域となっていた。 電信方面では、牡丹社事件後に丁日昌が旗后を巡視し、光緒3年に電報要電線を95kmにわたって敷設すると同時に旗后分局を設置、台湾の電報局の最初となっている。
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旗后地区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 22:12 UTC 版)
同治2年に旗后税関分署が設置されると旗后の通山里一帯は貨物の集散地として洋行、商店が集中し打狗地区最大の商業地域となった。通山巷付近が当時の外国商人の密集地域であった。また牡丹社事件以降、台湾巡視丁日昌により電信整備が行われ、光緒3年にアモイと連絡、旗后に電信分局が設置され、台湾の電信事業の嚆矢となった。
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