旗后地区とは? わかりやすく解説

旗后地区

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 03:07 UTC 版)

高雄の歴史」の記事における「旗后地区」の解説

漢人高雄地区居住した最初の記録1673年康熙12年)のものである最初移住者である徐阿など十数家は次第勢力拡大し集落形成するようになり、1691年康熙30年)には一定規模漢人集落となり、戸数20戸を越え媽祖宮(現在の旗后天后宮前身)などを建立していた。1726年雍正4年)、オランダ宣教師編纂した台湾地図には旗后はHandelarrsと、旗后半島Saracen Headとして出現している。1860年咸豊10年)に北京条約締結されると、旗后地区は通商要衝となり、同治2年には旗后税関分所設置され打狗港国際商港として発展していくこととなる。旗后の通山一帯物資集散場所となり、洋行商店が並ぶ、当時高雄地区で最も発展した商業区域となっていた。 電信方面では、牡丹社事件後に丁日昌が旗后を巡視し光緒3年電報電線を95kmにわたって敷設する同時に旗后分局設置台湾電報局最初となっている。

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旗后地区

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 22:12 UTC 版)

打狗港」の記事における「旗后地区」の解説

同治2年に旗后税関分署設置されると旗后の通山一帯貨物集散地として洋行商店集中し打狗地区最大商業地域となった通山付近当時外国商人密集地域であった。また牡丹社事件以降台湾巡視丁日昌により電信整備が行われ、光緒3年アモイ連絡、旗后に電信分局設置され台湾電信事業嚆矢となった

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