天津条約と打狗港開港
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 22:12 UTC 版)
鄭氏政権以来、打狗港は漁港として機能を中心としてきたが、1858年(咸豊8年)、清朝と英仏政府の間に天津条約が締結されると、打狗港は台湾における4ケ所の開港場の一つと定められ、1864年(同治3年)、暫定章程をし打狗港は正式に開港、漁港から商港への転換点を迎えることとなった。開港当初は打狗港には税関が設置されておらず、税関業務は廈門或いは淡水で行われていたが、その事務手続きの煩雑さを解消すべく1864年5月5日に打狗税関が設置された。 打狗港に税関が設置されると、旗后地区に商人が集まるようになった。1864年、イギリスの台湾貿易の成長率は100%を達し、これに対応してイギリス政府は台湾に領事館を設置、更なる貿易拡大を計画し、1864年11月7日に打狗に領事館を設置している。このように貿易取扱量が増大した打狗港であるが、当時の清朝では財政赤字を抱えており、また海防を主にした政策を実施していたため大型埠頭の形成は清代には実現していない。
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