天津教をめぐる事件
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1930年(昭和5年)12月7日~19日、『東京日日新聞』に批判記事。警視庁が詐欺罪容疑で竹内巨磨、前田常蔵、高畠康寿を取り調べする。不起訴。 1932年(昭和7年)、内務省特高警察が竹内巨磨を拘引、不敬の言動により同年6月、神宝拝観禁止、神社の鳥居を撤去。 1935年(昭和10年)12月28日、神宝が秦真次の手により東京市・靖国神社の遊就館の松田常太館長に託された。 1936年(昭和11年)2月13日朝、茨城県多賀郡磯原町にて竹内巨麿(1937年7月7日まで水戸警察で拘留)と磯原館という旅館の吉田兼吉が不敬罪、文書偽造行使罪、詐欺罪容疑で逮捕された。同年、4月17日検察書類送致、同月30日、竹内巨麿、神宝を水戸地方裁判所に移す旨の受託書を書く。 1937年(昭和12年)12月11日、逮捕者15名中竹内巨麿のみが不敬罪で起訴される。 1942年(昭和17年)3月16日、一審不敬罪有罪判決。上告。上告代理人弁護士は田多井四郎治、宮本正美、特別弁護人鵜澤總明(後の極東国際軍事裁判の日本弁護団長) 1944年(昭和19年)12月12日、大審院(現最高裁判所)無罪判決、結審。判決では、「この問題は裁判所の権限を超えた宗教問題である」、あるいは「単なる証拠不十分である」として無罪が宣告される。 1950年(昭和25年)1月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)から天津教は解散指定される。
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