事件の原因・背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 17:32 UTC 版)
台湾の日本統治初期においては清朝統治時代の隘勇制度が踏襲され、原住民族の隔絶・封じ込めが図られたが、1906年に佐久間左馬太が台湾総督に就任すると、山林資源などを求めて理蕃事業が本格的に開始された。台湾総督府は長期に亘る武力制圧の末に1915年には全域の原住民を支配するに至る。原住民に対しては大量の警官を通じた高圧的な統治を行う一方で、教育による同化が進められ、伝統的な文化・習俗は禁じられた。 原住民蜂起の直接の引き金となったとされるのが、霧社セデック族村落の一つマヘボ社のリーダーであったモーナ・ルダオ(繁体字中国語: 莫那魯道)の長男、タダオ・モーナが1930年(昭和5年)10月7日に起こした日本人巡査殴打事件である。その日、巡査が同僚を伴って村で行われていた結婚式の酒宴の場を通りかかったところ、宴に招き入れようとしたタダオが巡査の手を取って引っ張った。だが、彼の手は宴会のため解体した豚の血で汚れていたため、その不潔さに嫌悪を感じ思わずタダオの手をステッキで叩いた。原住民にとって酒を勧めることは、相手に対する敬意を表す意味があり、その拒絶を最大限の侮辱と感じたタダオは、この巡査を殴打したのである。原住民側はこの巡査殴打事件への報復に怯え、特にタダオの父モーナ・ルダオが警察の処罰によって地位を失うことを恐れ、事件を画策したといわれている。 原住民が事件を起こすに至った背景として、日頃からの差別待遇や強制的な労働供出の強要(出役)、山地統治を行う警察に対する反感、そして1900年代に抵抗する民族に対して行った台湾総督府による弾圧の記憶等が挙げられる。
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