事件の反響と影響
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この事件に対し、明治天皇はただちに詔勅を発して遺憾の意を表した。当時の日本国民の多くは痛嘆あるいは狼狽し、全国から個人・団体を問わず、電報や郵便で見舞いの意を表し、各種の贈り物を届けた。清の交渉団の宿には「群衆市をなす」と形容されるほどの人が集まり、日本国民全体が李に同情した。また、それまで李鴻章に悪口雑言を吐いていた人士も、この事件以来しきりに美辞をならべて功績を賞賛するなどの豹変ぶりを示した。これに対し陸奥は『蹇蹇録』に以下のように記して日本人の軽薄さに苦言を呈し、不甲斐なさを慨嘆している。 …その意もとより美しといえども往々徒に外面を粉飾するに急なるより、言行あるいは虚偽にわたり中庸を失うものもまたこれなしとせず。 …昨日まで戦勝の熱に浮かされ、狂喜を極めたる社会はあたかも居喪の悲境に陥りたるが如く、人情の反覆、波瀾に似たるは是非なき次第とはいえ、少しく言い甲斐なきに驚かざるを得ず。 純粋な法理論からすれば、陸奥が『蹇蹇録』に記しているように、「今回の事変は全く一個兇漢の罪行に出で、我政府も国民も固より何等の関繋(関係)なきことなれば、該犯罪人に対し相当の刑罰を加うれば、毫も其他に責任を及ぼすの理なし」と論じることは可能であった。ただし、現実にはなかなかそう簡単に割り切れるものでもなかった。 日本政府は、陸軍軍医総監石黒忠悳・佐藤進の両博士のほか古宇田博士・中浜博士ら名だたる専門医を下関に派遣し、またフランス公使館付の医師、ズバッスも招かれた。天皇と昭憲皇后は、李鴻章見舞いのために侍従武官の中村覚を派遣し、とくに皇后は御製の繃帯を届けている。原保太郎山口県知事はその責めを負って知事を辞任し、山口県警察部の後藤松吉郎もまた部長職を解任された。日本側は、あらゆる手段を講じて国際世論からの非難をかわそうと尽力したが、李鴻章もまたしたたかで、自身に起こった不幸を清国にとっての幸福に転換させようと努めたのであった。 この事件により李鴻章が交渉の席を蹴って帰国する怖れがないわけではなかった。生まれてはじめて行く外国が日本で、その日本でテロ事件が発生したのである。講和交渉の使節に危害を加えるような国で交渉継続は無理であるという説明は、世界中の人々を納得せしむるものであり、継戦は可能であるとはいえ、その場合であっても、世界は日本の戦争を不義の戦いとみるであろうことが予想された。また、小松宮率いる征清軍が出征すれば、今度は日本国内を防衛する兵士が不在となり、このことは各国の公使が本国に報告していた。このとき、日本は他国の干渉に最も脆弱な状態にあったのである。 上述した陸奥の見解、すなわち、国内法によって処罰すれば、それですむ話ではないかという見解は、あきらかに4年前の大津事件から教訓を得たものであった。大津事件が起こった際には、その陸奥でさえ、外交上の困難に対する怖れから、非合法にでも犯人津田三蔵を始末せよとの暴論を展開していた。それからすれば、ここでの陸奥はいたって沈着冷静であり、さらに踏み込んで、大津事件のときもロシア皇帝はそれを材料に本当は日本との間で何らかの取り引きをしたかったのではないかということを思い起こしたのである。現下、李鴻章も当然そう考えるであろうことは容易に察せられたし、それがまた、第三国からの干渉を呼び込むであろうことは必至であった。 戦勝国民が講和使節を殺害しようとする不祥事に各国の同情も清国に集まり、必ずや第三国の干渉を招く事態になると考えた陸奥外相は、即座に手を打ち、充分に礼を尽くして清国に実質的な利益を与え、講和交渉を継続してもらわなければならないと判断した。そして、機先を制して、清にとって有利なはずの休戦を日本側のリーダーシップによって一刻も速く実現すべきことを伊藤博文首相に訴えた。日本の警察の不手際によって講和の進展を妨げた期間、戦争を遂行したのでは、日本は「道義に欠ける非文明国」との烙印を押されることも考えられたのである。 伊藤もこれには賛成したが、停戦については軍部の意向を伺わなければならない。下関から広島に電報を打って確かめると、大本営や閣僚のあいだでは休戦反対が優勢であった。陸奥の判断では、ここで2週間ないし3週間の休戦に入り、その後、戦闘を再開するとしてもさほど戦機を誤ることはないはずであり、彼にとっては、少しでも早く講和を結ぶことこそが至上命題なのであった。伊藤は陸奥の意向を受けて広島に赴き、単身で各大臣の説得に努めた。伊藤博文は3月26日の文武重臣会議において、以下のような趣旨の演説をしている。 今まで、わが国は、日清間のことは日清両国で決定するといって、他国の容喙を許さず、清国が外国に愁訴しても、外国に干渉の口実を与えなかった。 しかし、清国は、ここでまたとない口実を得た。李鴻章が直ちに帰国して、各国に対して、日本の希望に沿ってわざわざ日本にまで赴いたのに、危害を加えられるようでは、日本は、口では文明というが、とうてい話しあいの相手にはできないと訴えれば、各国は同情し、袖を連ねて干渉する口実を得て、形勢は一転して日本にとって不利となろう。 善後策としては、会談を継続するほかはない。そのためには、直ちに無条件休戦を許すべきである。 こうして伊藤は、反対する軍部を数日間でまとめ、かなり早い段階で休戦方針を清側に伝え、李鴻章狙撃事件のダメージを最小限にとどめることに成功した。とはいえ、軍は無条件停戦に対しては頑強に反対した。伊藤は天皇をも動かして3月27日に休戦の勅許を得ており、また、3万のロシア軍が清国の北方に移動するという軍事情報が入ったことで山縣有朋らもようやく休戦に同意した。李鴻章は銃弾摘出手術を断って交渉継続の意思を示した。休戦を望む西太后の意を受けた李鴻章は、時間の浪費は許されないと考え、交渉終了後に手術することとしたのであった。もし、李鴻章がロシア軍が動いていることを知っていたならば、手術を理由に交渉を引き延ばすことも考えられた。 陸奥宗光は天皇による休戦の勅許を条約文に作り上げて、3月28日に李鴻章の病床を訪問し、その草案を李に示した。李鴻章は陸奥の話を聞いて、繃帯のなかからわずかにみえる右の眼に歓喜の表情をうかべ、病床からであっても、すぐに交渉を再開してよいと述べた。そして、陸奥の示した「台湾、澎湖列島およびその付近において交戦に従事する所の遠征軍を除く他」という文面に対して訂正を求め、日本側は「日清両帝国政府は盛京省・直隷省・山東省地方に在て下に記する所の條項に従ひ両国海陸軍の休戦を約す」という文面への変更に応じて両者が合意に達し、3月30日、休戦定約が締結され、日本は無条件で台湾・澎湖諸島方面を除く地域での3週間(21日間)の休戦に応じた。この交渉の間、港に停泊していた清国の汽船はボイラーをさかんにたいて、すぐにでも帰国できる姿勢を示していたというから、伊藤と陸奥の懸命な努力は、交渉決裂の危機を寸前のところで回避したといえる。 会議は継続して、その翌々日の4月1日より講和条件の交渉にうつり、1895年4月17日、日本側は伊藤博文・陸奥宗光、清国側は李鴻章・李経方の署名によって下関条約調印が成立した。 犯人の小山豊太郎は1895年3月30日、山口地裁で無期徒刑の判決を受けた。小山の弁護は、弁護士で山口弁護士会の会長だった小河源一が担当した 。
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