事件の反響と影響とは? わかりやすく解説

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事件の反響と影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/18 05:21 UTC 版)

李鴻章狙撃事件」の記事における「事件の反響と影響」の解説

この事件対し明治天皇はただちに詔勅発して遺憾の意を表した当時日本国民多く痛嘆あるいは狼狽し全国から個人・団体問わず電報郵便見舞いの意を表し各種贈り物届けた。清の交渉団の宿には「群衆市をなす」と形容されるほどの人が集まり日本国民全体同情したまた、それまで李鴻章悪口雑言吐いていた人士も、この事件以来しきりに美辞ならべて功績賞賛するなどの豹変ぶり示した。これに対し陸奥は『蹇蹇録』に以下のように記して日本人軽薄さ苦言呈し不甲斐なさ慨嘆している。 …その意もとより美しといえども往々徒に外面粉飾する急なるより、言行あるいは虚偽にわたり中庸を失うものもまたこれなしとせず。 …昨日まで戦勝熱に浮かされ狂喜極めた社会あたかも居喪の悲境に陥りたるが如く人情反覆波瀾似たるは是非なき次第とはいえ少しく言い甲斐なきに驚かざるを得ず純粋な法理論からすれば陸奥が『蹇蹇録』に記しているように、「今回事変は全く一個兇漢の罪行に出で、我政府国民固より何等の関繋(関係)なきことなれば、該犯罪人対し当の刑罰加うれば、毫も其他に責任を及ぼすの理なし」と論じることは可能であった。ただし、現実にはなかなかそう簡単に割り切れるものでもなかった。 日本政府は、陸軍軍医総監石黒忠悳佐藤進の両博士のほか古宇田博士中浜博士ら名だたる専門医下関派遣し、またフランス公使館付の医師、ズバッスも招かれた。天皇昭憲皇后は、李鴻章見舞いのために侍従武官中村覚派遣し、とくに皇后御製繃帯届けている。原保太郎山口県知事はその責め負って知事辞任し山口県警察部後藤松吉郎もまた部長職を解任された。日本側は、あらゆる手段講じて国際世論からの非難かわそう尽力したが、李鴻章またしたたかで、自身起こった不幸を清国にとっての幸福に転換させよう努めたであった。 この事件により李鴻章交渉席を蹴って帰国する怖れがないわけではなかった。生まれてはじめて行く外国日本で、その日本でテロ事件発生したのである講和交渉使節危害加えるような国で交渉継続は無理であるという説明は、世界中人々納得せしむるものであり、継戦は可能であるとはいえその場であっても世界日本戦争不義戦いとみるであろうことが予想された。また、小松宮率いる征清軍が出征すれば、今度日本国内防衛する兵士不在となり、このことは各国公使本国報告していた。このとき、日本他国干渉に最も脆弱な状態にあったのである上述した陸奥見解、すなわち、国内法によって処罰すれば、それですむ話ではないかという見解は、あきらかに4年前の大津事件から教訓得たものであった大津事件起こった際には、その陸奥でさえ、外交上の困難に対す怖れから、非合法にでも犯人津田三蔵始末せよとの暴論展開していた。それからすれば、ここでの陸奥いたって沈着冷静であり、さらに踏み込んで大津事件のときもロシア皇帝はそれを材料本当日本との間で何らかの取り引きをしたかったではないかということ思い起こしたのである現下李鴻章も当然そう考えであろうことは容易に察せられたし、それがまた、第三国からの干渉呼び込むであろうことは必至であった戦勝国民が講和使節殺害しようとする不祥事各国同情清国集まり必ずや第三国干渉を招く事態になると考えた陸奥外相は、即座に手を打ち充分に礼を尽くして清国実質的な利益与え講和交渉継続してもらわなければならない判断した。そして、機先を制して、清にとって有利なはずの休戦日本側のリーダーシップによって一刻速く実現すべきことを伊藤博文首相に訴えた日本の警察不手際によって講和進展妨げた期間、戦争遂行したのでは、日本は「道義欠け非文明国」との烙印を押されることも考えられのである伊藤もこれには賛成したが、停戦については軍部意向を伺わなければならない下関から広島電報打って確かめると、大本営閣僚のあいだでは休戦反対優勢であった陸奥判断では、ここで2週間ないし3週間休戦入りその後戦闘再開するとしてもさほど戦機を誤ることはないはずであり、彼にとっては、少しでも早く講和を結ぶことこそが至上命題なのであった伊藤陸奥意向受けて広島に赴き、単身で各大臣説得努めた伊藤博文3月26日文武重臣会議において、以下のような趣旨演説をしている。 今までわが国は、日清間のことは日清両国決定するといって他国容喙許さず清国外国愁訴しても、外国干渉口実与えなかった。 しかし、清国は、ここでまたとない口実得た李鴻章直ち帰国して各国に対して日本希望沿ってわざわざ日本にまで赴いたのに、危害加えられるようでは、日本は、口では文明というが、とうてい話しあいの相手にはできない訴えれば各国同情し袖を連ねて干渉する口実得て形勢一転して日本にとって不利となろう善後策としては、会談継続するほかはない。そのためには、直ち無条件休戦を許すべきである。 こうして伊藤は、反対する軍部数日間でまとめ、かなり早い段階休戦方針を清側に伝え李鴻章狙撃事件ダメージ最小限とどめることに成功したとはいえ、軍は無条件停戦に対して頑強に反対した。伊藤天皇をも動かして3月27日休戦勅許得ており、また、3ロシア軍清国北方移動するという軍事情報入ったことで山縣有朋らもようやく休戦同意した李鴻章銃弾摘出手術断って交渉継続意思示した休戦を望む西太后意を受けた李鴻章は、時間浪費許されない考え交渉終了後手術することとしたのであった。もし、李鴻章ロシア軍動いていることを知っていたならば、手術理由交渉引き延ばすことも考えられた。 陸奥宗光天皇による休戦勅許条約文に作り上げて3月28日李鴻章病床訪問し、その草案示した李鴻章陸奥の話を聞いて繃帯のなかからわずかにみえる右の眼に歓喜表情をうかべ、病床からであっても、すぐに交渉再開してよいと述べた。そして、陸奥示した台湾澎湖列島およびその付近において交戦従事する所の遠征軍を除く他」という文面に対して訂正求め日本側は「日清帝国政府盛京省直隷省山東省地方に在て下に記する所の條項に従ひ両国海陸軍休戦約す」という文面への変更に応じて両者合意達し3月30日休戦定約締結され日本無条件台湾澎湖諸島方面を除く地域での3週間21日間)の休戦応じた。この交渉の間、港に停泊していた清国汽船ボイラーさかんにたいて、すぐにでも帰国できる姿勢示していたというから、伊藤陸奥懸命な努力は、交渉決裂危機寸前のところで回避したといえる会議継続して、その翌々日4月1日より講和条件交渉にうつり、1895年4月17日日本側は伊藤博文陸奥宗光清国側李鴻章李経方署名によって下関条約調印成立した犯人小山豊太郎1895年3月30日山口地裁無期徒刑判決受けた小山弁護は、弁護士山口弁士会会長だった小河源一担当した

※この「事件の反響と影響」の解説は、「李鴻章狙撃事件」の解説の一部です。
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