清朝統治時代
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台湾道 康熙年間に台湾を版図に収めた清朝は台廈道を設置し、台湾と廈門を共同管轄し福建省の所轄とした。(道は清朝行政区画の一種であり、府と省の中間に当たる)台湾本島には一府三県を設置している。台廈道道署が廈門に設置され、台湾府が台南に設置された。1723年、台廈道を台湾道と改称、1727年には台湾道は正式に廈門から分離され、道署が台南に移されると同時に台湾道の下に一府四県一庁を設置した。(劉寧顔編,『重修台湾省通志』及) 1887年(光緒13年)、台湾は省として行政的に独立した。しかし福建省がなお行政の一部を担当していたことから当初は福建台湾省と称されており、台湾省の下に台北府、台湾府、台南府の三府が設置された。このとき設置された台湾府とは現在の台湾中部地区のことである。
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清朝統治時代
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記録によれば当時の金瓜石の山の標高は海抜約660mで、現在よりも80m程高かったという。直径100m近い巨大な円筒型の岩山がそびえ立っていたことになる。その巨岩が瓜のような形をしており、また金を多く含んでいたので「金の瓜の石」即ち金瓜石と呼ばれ、それがそのまま地名となったと伝わる。台湾の言葉で南瓜(かぼちゃ)のことを金瓜を呼ぶが、金瓜石の山がかぼちゃの様な形をしているので金瓜石と呼ぶのだ、というのは誤りである。 1890年(明治23年)、基隆川に架ける鉄道橋工事の最中、作業員によって渓流から砂金が発見された。以後猴硐溯から小粗坑溪、大粗坑溪に沿って上流への鉱脈探索が進められ、1893年には九份(きゅうふん)にて金鉱を発見、一躍ゴールドラッシュの様相を呈した。翌1894年には金瓜石でも金鉱が発見されたが、当時日清戦争などで清国政府は鉱山の管理どころでなく、ほぼ放任状態だったという。
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清朝統治時代
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1891年(光緒17年)10月20日 - 基隆~台北の開通とともに現在地より西側、淡水河右岸の大稲埕地区南側で「台北火車碼頭」として開業(p16)。 1893年(光緒19年)11月30日 - 新竹まで延伸(p76)。
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清朝統治時代
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1683年に清国による台湾統治が開始されても、清政府は「化外の地」として台湾島への渡航自体を制限し、当初は台北が開発されることはなかった。やがてうやむやのうちに制限は解除され、漢民族の移住は活発化し、台北は「一府二鹿三艋舺」と三大都市の一つに数えられるほど栄えるようになった。「府」とは清朝統治の中心であった台南、「鹿」とは台湾中部の鹿港、艋舺とは台北(厳密には現在の万華地区周辺の古称)のことである。字が示すように、元々台北は水運から発達した。 台南と比べると都市形成の点で後進的であった台北であるが清末には都市化が進行し、1875年には清政府による台北府の設置と台北城の建設が始まった。1882年に方形の城壁が張り巡らされ、1885年には台湾省が設置されて台北はその省都となるなど台北は中国的近代都市として成長を遂げた。巡撫として派遣された劉銘伝は電灯、電報、鉄道などのインフラを整備し、また都市整備のため大陸の商人資本を集めて興市公司を設立するなどの政策を次々と遂行し、ここに「清国人の都市としての」台北は着々と発展していった。現在台北市の行政区を囲むように点在する四つの城門は、当時を偲ばせるものであるが、福建様式の一つを除いた残りの門は国民政府以降に作られたため北京様式である。 しかしながら、日清戦争敗北によって清国が台湾割譲を余儀なくされるとこうした流れは一転し、台北は日本的近代都市として新たな成長期を迎えることとなった。
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清朝統治時代
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清朝は1860年に西欧諸国と締結した北京条約により台湾統治政策の変更を余儀なくされた。1887年(光緒13年)に福建台湾省(中国語版)を設置、同時に「全台鉄路商務総局(中国語版)」を設立し、基隆から府城(現・台南市)を結ぶ台湾初の鉄道路線(全台鉄路商務総局鉄道。現在の縦貫線の前身)建設計画に着手した。 初期は基隆港から台北を経て竹塹(現在の新竹)までの区間が最優先とされ、このトンネル工事は1888年(光緒14年)春に起工された。1890年(光緒16年)8月に30ヶ月の工期と相当数の人手、資金を費やした全長約235メートルのトンネルが完成した。 劉銘伝
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清朝統治時代
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275年間に及ぶ清朝のモンゴル統治では、モンゴル族を同盟者として扱い、その忠誠を確保するためにさまざまな保護がなされていた。まず、行政組織としては満洲族の八旗制度に準じて「旗(ホシューン)」を基本単位とし、旗ごとに牧地を指定して世襲制の「旗長(ジャサク、扎薩克)」を置いた。清朝は漠南のモンゴル諸部を四十九旗に再編し、その上に六つの「盟(チュールガン)」を置いた。四十九旗の各旗長(ジャサク)には、位に応じて和碩親王(ホショイ・チンワン)、多羅郡王(ドロイ・ギュンワン)、多羅貝勒(ドロイ・ベイレ)、固山貝子(グサイ・ベイセ)、鎮国公(トシェグン)、輔国公(トサラフグン)など、清朝皇族と同じ爵位が与えられた。これらの下に一等から四等までの台吉(タイジ)または塔布嚢(タブナン)の称号がある。清朝においてモンゴル統治を担当する中央機関は初め、蒙古衙門といったが、1638年からは理藩院と改められた。清朝統治下にあるモンゴル諸部は「外藩蒙古」、「八旗蒙古」、「内属蒙古」の3つに分類できる。「外藩蒙古」とは、1636年から1771年にかけて清朝に帰順したモンゴル諸部のことをいい、「八旗蒙古」とは1636年の清朝建国以前に個別に編入されたモンゴル人集団をいい、「内属蒙古」とは、モンゴル宗主であるチャハル部とアルタン・ハーンの子孫であるトゥメト部を指すが、この両部は北元時代にモンゴルの中心となり、ハーンを出した部族であるため、モンゴルの再統一を怖れた清朝がジャサクを置かず、清朝皇帝直属としたものをいう。清朝は各藩部に対しては種族自治を原則としており、種族ごとにそれぞれ異なった法律を制定した。モンゴル人に対しては初め『蒙古例』が制定され、乾隆帝時代には『蒙古律例』、やがて『理藩院則例』が制定された。このように清朝は各藩部に自治を与えていたため、モンゴル人にとって清朝皇帝はハーンと同じ存在であり、同君連合国家の体をなしていた。 19世紀になり、アヘン戦争、清仏戦争、日清戦争と、清朝の体制が揺らぎ始めると、清朝は対蒙新政策として、行政改革、新式軍隊の配備、学校・保健衛生施設の設置など、近代的な多方面にわたる政策を実施した。20世紀に入ると、それまでの蒙地保護政策を一変して漢人の入植を奨励し、内モンゴルの牧地減少を促した。また、仏教僧侶に対する優遇政策もなくなったため、モンゴル人と仏教界による反発が大きくなっていった。中にはモンゴル王公が現金収入を得るために開墾を奨める所もあり、牧地を失ったモンゴル遊牧民は次第に農民に変化していった。
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清朝統治時代
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1887年(光緒13年)6月9日 - 台北基隆間起工式(p76)。この日は第二次世界大戦後鉄路節となる。 1888年(光緒14年)5月10日 - 台北新竹間起工(p76)。 8月25日 - 劉銘伝統治下で全台鉄路商務総局鉄道(現縦貫線)が台北と錫口(現松山駅)との間に台湾初の鉄道路線が完成、試運転を行う。 1891年(光緒17年)10月20日 - 台北基隆線開通に伴い「台北火車票房」正式開業(p76)。 1893年(光緒19年)11月30日 - 当駅を起点に新竹駅までの路線が開業(p76) 1894年(光緒20年)1月23日 - 開業式典開催。
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清朝統治時代
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1684年、台湾を平定した清朝によって、台湾には台湾府及び台湾、鳳山、諸羅の3県が設置された。台湾及び諸羅が現在の台南県の地域に該当する。当時の台湾の中心は台南であり、そこを基点に南北に開発が進行した。1726年には台湾府知事蔣毓英が現在の永康区に洲仔尾塩場を設置するなど、経済活動も活発に行われていた。1831年には現地の農民である欧陽安により虎頭埤水庫が現在の新化区に設けられ灌漑が実現している。当初は限られた地域への灌漑に限定されていたが、その後も整備が進み、現在では台湾を代表する農村風景となっている。 商業経済面では1860年に台湾が対外的に開港したことで、茶葉、砂糖、樟脳の輸出が開始される。台南地区は砂糖の主要生産地であり、1890年代には台湾全土の製糖所1,275箇所の内1,057箇所を占めるようになっている。 清末に日本の台湾出兵を受け、清朝の側にも海防意識が高まり、台湾での軍事施設の建設が推進される。1888年、台湾巡撫の劉銘伝により台湾の重要性が強調されるなどした結果、台湾省が新設され、その下に台北、台湾、台南の3府が設置された。これが「台南」という地名の初見である。 日清戦争により日本に割譲されることになった台湾では、割譲に反対する清官僚らにより台湾民主国が建国される。その歴史は「第一共和」及び「第二共和」の2期に及ぶが、第一共和が僅か10日で崩壊したのち、その後台南で第二共和が成立し、100余日に及ぶ抗争が始まる。
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清朝統治時代
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清朝による台湾統治の初期は台湾に対しての積極的な政策は採用されず、個人的な移民による開墾と水利事業が主体となった。 水利事業は農業の根幹であり経済発展の原動力である。1719年から施世榜は濁水渓を利用した水利工事を行うと、「圳(用水路の意味)」が台湾経済発展の重要な地域を占めるに至った。18世紀初頭、台湾の耕地が水田となると、農業経済と農業生産力は飛躍的な発展を遂げることとなり、1725年には台湾より大陸に米が輸送されるという台湾経済市場注目すべき成果を挙げている。 また清代になっても貿易とそれに付随する商業活動が活発に行われていた。一府二鹿三艋舺と称される三大都市が台湾の物流の中心となり、また「郊」と称される組織を利用して特定地区の貿易も盛んに行われた。 1858年、英仏両国が市場を求め清朝に開港を要求、その結果台湾の安平、打狗、基隆、淡水が開港されることとなり、台湾からは商品価値の高い茶葉及び樟脳が輸出され、台湾経済発展の資本形成に寄与している。
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