清朝末期の動乱期の北京
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:25 UTC 版)
「北京の歴史」の記事における「清朝末期の動乱期の北京」の解説
1911年、武昌で軍隊の蜂起があり(武昌蜂起)、辛亥革命が勃発した。翌年の1912年1月を期して革命家・孫文が率いる中華民国政府が発足・成立することとなった。しかし、この時点ではいまだに北京は清帝国の支配下におかれ、皇帝には愛新覚羅溥儀(宣統帝)が即位、内閣には袁世凱という最大の軍閥が控え、うかつには手が出せない状況であった。 しかし、事態が一転する出来事があった。それが袁世凱の裏切りであり、「自身を中華民国大総統に就任させること」を条件に、清帝国の皇帝を退位させる、と迫った。これは、もはや風前の灯火であった清帝国での実権を握るより、新興で勢いのあった中華民国のトップとなるほうが得である、という算段であったが、孫文たち中華民国の大臣たちはそれを受け入れ、代わりに民主制の絶対保持を求めた。その結果、2月には宣統帝が退位、長年中国を支配した清帝国と皇帝制は終焉を遂げた。また、この際、中華民国との間に「皇室優待条件」がむすばれ、宣統帝とその家族たちは紫禁城内で今までと変わらぬ豪奢な暮らしと、名目上の「皇帝(今までのような実権も、どの地も実効支配していなかった)」の位を保持することが認められることとなった。
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