清朝時代の台湾における呉鳳についての伝承とは? わかりやすく解説

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清朝時代の台湾における呉鳳についての伝承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/25 07:27 UTC 版)

呉鳳」の記事における「清朝時代の台湾における呉鳳についての伝承」の解説

呉鳳について記録され文献は、劉家謀の「海音詩」が最も古いものとされている。作者である劉家謀は道光年間台湾役人務めていた人物であり、その題名通り漢詩集である海音詩は1855年咸豊5年)に福州にて出版されている。 海音詩ではまず呉鳳に関する七言絶句があり、詩への追記の形で呉鳳について紹介している。それによると呉鳳通事通訳)としてツォウ族との交易従事していた。やがて呉鳳ツォウ族漢族たちの行き村人たち殺そう画策していることを知った呉鳳はまずツォウ族交渉して殺害時期引き延ばし図りその間村人たち避難させた。このことを知ったツォウ族呉鳳殺そうとした。呉鳳家人対し、「私が死ねば村人たち救われるだろう」と言い残し殺された。呉鳳死後夕暮れになるとツォウの々にざんばら髪で剣を差した呉鳳騎馬姿で現れるようになり、それとともに疫病流行して多く死者出た。ツォウの人々呉鳳祟り恐れ漢人たちを殺さぬことを誓うようになり、春と秋に呉鳳の墓を祀るようになった海音詩の内容から、呉鳳地方官にあたる職位にあったが、原住民との間の通訳という業務主要な役職ではなかったため、呉鳳のことは同時代行政記録などには残らなかったと見られている。そして呉鳳死後台湾役人務めていた劉家謀が台湾聞いた呉鳳の話を海音詩に記述した考えられ、これは呉鳳についての最も素朴な形の伝承であると見られている。 続いて1894年光緒20年)、倪贊元の「雲林縣采訪冊」に呉鳳について紹介されている。雲林縣采訪冊では海音詩と比べて呉鳳についてかなり詳細な伝承紹介されている。呉鳳ツォウ族との間の通事通訳)であるとする点については海音詩と同一であるが、これまでの通事ツォウ族の人を殺すことを好む習慣恐れ遊民をあえてツオウ族犠牲として提供していたのに対し呉鳳ツォウ族悪習止めさせるべく交渉し殺害の実行引き延ばしてみたものの、結局抑えきることが出来なかったとしている。 結局ツォウ族説得不可能であると判断した呉鳳は、家人呉鳳似せた騎馬姿で刀を携えた紙製人形を作らせ、その上で自分ツォウ族最後説得に赴こうと考えているが、殺されてしまったらこの紙製人形焼き、「呉鳳が山に入った!」と告げるよう伝えた家人思いとどまるように懇願したものの聞かず呉鳳朱衣紅巾といういでたちツォウ族ところへ向かった呉鳳ツォウ族対し「どうしてみだりに人を殺そうとするのか」と説得する聞き入れられず、呉鳳殺された。呉鳳殺されたことを知った遺族生前言いつけ通りにしたところ、ツォウ族はしばしば刀を携えた騎馬姿の呉鳳の姿を見るようになり、そのたび疫病によって多く死者発生した。この結果としてツォウ族漢人殺さないようになり、漢人たちは祠を立てて呉鳳祀るようになった海音詩と雲林縣采訪冊で紹介されている呉鳳について比較してみると、雲林縣采訪冊の呉鳳記述では、殺されるときに朱衣紅巾という後に呉鳳象徴することになるいでたちであったとする点や、殺された後に紙の人形を燃やすように指示したなど、より詳細となっている。また呉鳳の姿も威厳満ちたものとなっている。朱衣紅巾の赤い色は漢人民間信仰の中で魔除けの色とされ、また紙の人形漢人民間信仰でしばしば用いられる漢族民間信仰象徴する朱衣紅巾、紙の人形登場や、海音詩では呉鳳の墓を祀っていたものが、雲林縣采訪冊では呉鳳祀る祠が建てられとされる点から、海音詩から雲林縣采訪冊までの約40年間の間に、漢人民間信仰の中では呉鳳人鬼から神霊へと神格化されていったとの考察がある。また、雲林縣采訪冊が刊行され19世紀末段階では、正式に神と見なされていたかまでは明らかとは言えないものの、呉鳳もたらす霊験存在記録されていることから、単なるではなく、神と鬼との境界的な存在である「鬼神であったとの見方もある。いずれにしても現在の嘉義県東部19世紀末漢族社会では、呉鳳は単にツォウ族殺され通事とどまらず神霊ないし鬼神といった神性持った存在として認識されていた。 事実嘉義県東部には19世紀、清の統治時代呉鳳祀る廟が複数創建されたことが明らかになっている。これらの廟の中には現在でも呉鳳祀り続けているものもあり、嘉義県東部漢族社会の中で、呉鳳祀る習慣一世紀以上という長期わたって継続していることを示している。中でも現在の嘉義県中埔郷社口にある呉鳳廟は、呉鳳没後、その功績称えるために社口庄(現在の社口周辺漢人らが建立計画し呉鳳の跡を継いで通事となった楊秘を中心として寄付募り1820年嘉慶25年)に社口庄の呉鳳旧家跡に建設されたと伝えられている。その後呉鳳廟は1880年光緒6年)頃には頽廃してしまうが、地元有志たちが1885年光緒11年)に修復再建したとされるまた、雲林縣采訪冊の記述の中で、呉鳳没年戊戌であると記載されている点が注目される。しかし戊戌1718年康煕57年)なのか1778年乾隆43年)なのか、それとも1838年道光18年)なのかははっきりとしない清朝時代台湾における呉鳳に関する資料としては、海音詩、雲林縣采訪冊の他に、1719年康煕58年3月日付記され土地契約書がある。契約者として呉鳳の名が記されたこの土地契約書は、公租支払い窮した阿里山原住民公租呉鳳代納する代わりに原住民所有していた土地開発得て呉鳳開発得た土地開墾し小作料徴収していくといった内容であった。つまり呉鳳公租代納という手段用いてこれまで原住民所有してきた土地占拠していくという、いわば原住民権利侵害する一面持っていたとされる

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