清朝時代の台湾における呉鳳についての伝承
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「呉鳳」の記事における「清朝時代の台湾における呉鳳についての伝承」の解説
呉鳳について記録された文献は、劉家謀の「海音詩」が最も古いものとされている。作者である劉家謀は道光年間、台湾で役人を務めていた人物であり、その題名の通り漢詩集である海音詩は1855年(咸豊5年)に福州にて出版されている。 海音詩ではまず呉鳳に関する七言絶句があり、詩への追記の形で呉鳳について紹介している。それによると呉鳳は通事(通訳)としてツォウ族との交易に従事していた。やがて呉鳳はツォウ族が漢族たちの村へ行き、村人たちを殺そうと画策していることを知った。呉鳳はまずツォウ族と交渉しての殺害時期の引き延ばしを図り、その間に村人たちを避難させた。このことを知ったツォウ族は呉鳳を殺そうとした。呉鳳は家人に対し、「私が死ねば村人たちは救われるだろう」と言い残し、殺された。呉鳳の死後、夕暮れになるとツォウの村々にざんばら髪で剣を差した呉鳳が騎馬姿で現れるようになり、それとともに疫病が流行して多くの死者が出た。ツォウの人々は呉鳳の祟りを恐れ、漢人たちを殺さぬことを誓うようになり、春と秋には呉鳳の墓を祀るようになった。 海音詩の内容から、呉鳳は地方官にあたる職位にあったが、原住民との間の通訳という業務は主要な役職ではなかったため、呉鳳のことは同時代の行政記録などには残らなかったと見られている。そして呉鳳の死後、台湾で役人を務めていた劉家謀が台湾で聞いた呉鳳の話を海音詩に記述したと考えられ、これは呉鳳についての最も素朴な形の伝承であると見られている。 続いて1894年(光緒20年)、倪贊元の「雲林縣采訪冊」に呉鳳について紹介されている。雲林縣采訪冊では海音詩と比べて呉鳳についてかなり詳細な伝承が紹介されている。呉鳳がツォウ族との間の通事(通訳)であるとする点については海音詩と同一であるが、これまでの通事がツォウ族の人を殺すことを好む習慣を恐れ、遊民をあえてツオウ族の犠牲として提供していたのに対し、呉鳳はツォウ族の悪習を止めさせるべく交渉し、殺害の実行を引き延ばしてみたものの、結局抑えきることが出来なかったとしている。 結局ツォウ族の説得が不可能であると判断した呉鳳は、家人に呉鳳に似せた騎馬姿で刀を携えた紙製の人形を作らせ、その上で自分はツォウ族に最後の説得に赴こうと考えているが、殺されてしまったらこの紙製の人形を焼き、「呉鳳が山に入った!」と告げるよう伝えた。家人は思いとどまるように懇願したものの聞かず、呉鳳は朱衣紅巾といういでたちでツォウ族のところへ向かった。呉鳳はツォウ族に対し「どうしてみだりに人を殺そうとするのか」と説得するも聞き入れられず、呉鳳は殺された。呉鳳が殺されたことを知った遺族は生前の言いつけ通りにしたところ、ツォウ族はしばしば刀を携えた騎馬姿の呉鳳の姿を見るようになり、そのたびに疫病によって多くの死者が発生した。この結果としてツォウ族は漢人を殺さないようになり、漢人たちは祠を立てて呉鳳を祀るようになった。 海音詩と雲林縣采訪冊で紹介されている呉鳳について比較してみると、雲林縣采訪冊の呉鳳の記述では、殺されるときに朱衣紅巾という後に呉鳳を象徴することになるいでたちであったとする点や、殺された後に紙の人形を燃やすように指示したなど、より詳細となっている。また呉鳳の姿も威厳に満ちたものとなっている。朱衣紅巾の赤い色は漢人の民間信仰の中で魔除けの色とされ、また紙の人形も漢人の民間信仰でしばしば用いられる。漢族の民間信仰を象徴する朱衣紅巾、紙の人形の登場や、海音詩では呉鳳の墓を祀っていたものが、雲林縣采訪冊では呉鳳を祀る祠が建てられたとされる点から、海音詩から雲林縣采訪冊までの約40年間の間に、漢人の民間信仰の中では呉鳳は人鬼から神霊へと神格化されていったとの考察がある。また、雲林縣采訪冊が刊行された19世紀末の段階では、正式に神と見なされていたかまでは明らかとは言えないものの、呉鳳がもたらす霊験の存在が記録されていることから、単なる鬼ではなく、神と鬼との境界的な存在である「鬼神」であったとの見方もある。いずれにしても現在の嘉義県東部の19世紀末の漢族社会では、呉鳳は単にツォウ族に殺された通事にとどまらず、神霊ないし鬼神といった神性を持った存在として認識されていた。 事実、嘉義県東部には19世紀、清の統治時代に呉鳳を祀る廟が複数創建されたことが明らかになっている。これらの廟の中には現在でも呉鳳を祀り続けているものもあり、嘉義県東部の漢族社会の中で、呉鳳を祀る習慣が一世紀以上という長期にわたって継続していることを示している。中でも現在の嘉義県中埔郷社口村にある呉鳳廟は、呉鳳の没後、その功績を称えるために社口庄(現在の社口村)周辺の漢人らが建立を計画し、呉鳳の跡を継いで通事となった楊秘を中心として寄付を募り、1820年(嘉慶25年)に社口庄の呉鳳の旧家跡に建設されたと伝えられている。その後呉鳳廟は1880年(光緒6年)頃には頽廃してしまうが、地元の有志たちが1885年(光緒11年)に修復再建したとされる。 また、雲林縣采訪冊の記述の中で、呉鳳の没年が戊戌であると記載されている点が注目される。しかし戊戌が1718年(康煕57年)なのか1778年(乾隆43年)なのか、それとも1838年(道光18年)なのかははっきりとしない。 清朝時代の台湾における呉鳳に関する資料としては、海音詩、雲林縣采訪冊の他に、1719年(康煕58年)3月の日付が記された土地契約書がある。契約者として呉鳳の名が記されたこの土地契約書は、公租の支払いに窮した阿里山原住民の公租を呉鳳が代納する代わりに原住民が所有していた土地の開発権を得て、呉鳳は開発権を得た土地を開墾し、小作料を徴収していくといった内容であった。つまり呉鳳は公租の代納という手段を用いて、これまで原住民が所有してきた土地を占拠していくという、いわば原住民の権利を侵害する一面を持っていたとされる。
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