清朝統治下のムスリム社会
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「ヤクブ・ベクの乱」の記事における「清朝統治下のムスリム社会」の解説
清朝政府は、1762年、天山山脈北部にイリ将軍府を設置し、旗人による軍政を敷いた。主にウイグル族の住むこの地域はイリ将軍統治下の回部として、藩部の一部となり、「ムスリムの土地」を意味する「回疆」もしくは「新しい土地」を意味する「新疆」と呼ばれた。一方、ムスリム社会の末端行政には、在地の有力者に官職を与え、自治を行わせる「ベグ官人制」が敷かれ、在地の社会構造がそのまま温存された。このベグ官人制は1884年の新疆省まで存続した。こうしたベグ制度の復活については、「柔構造的支配」の現れとして、清朝が満洲人による政府であり、漢化しながらも漢民族ではない「異民族」として自らを意識したうえで、チベット・モンゴル・ウイグル(新疆) との間に「多重文明圏」を形成し、華夷秩序に基づく支配構造ではなく、むしろ対等な文明共存関係であり、「柔構造」を有していたもされる。 東トルキスタンが清朝の支配下にはいって1世紀がたった1860年代の段階で、東トルキスタンは三つの路に分かれて統治されていた。 天山北路はイリ地方を管轄。 天山南路は8都市を管轄 (西のホータン、ヤルカンド、イェンギサール、カシュガル、東のウシュトゥルファン、アクス、クチャ、カラシャール)。 東路はウルムチ周辺を管轄。 イリ将軍は恵遠城に駐箚し、3路の軍を統括していた。さらに天山北路の民政を直接担当し、天山南路の民政も地元のベグを通じて行っていた。しかし東路の民政に関しては甘粛省の管轄下にあった。
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