清朝統治下の活動とは? わかりやすく解説

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清朝統治下の活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 09:18 UTC 版)

ホルチン」の記事における「清朝統治下の活動」の解説

崇徳元年1636年4月後金は清と改称し皇帝ホンタイジは詔でホルチン部五つジャサク(Jasak、扎薩克)を設け、バダリ(Badari、巴達礼),マンジュシリ,ブダチ,ホンゴル、ラマスヒにそれぞれ分領し、親王cin wangチンワン)、郡王(giyūn wang、ギュンワン)、鎮国公(トシェグン)の爵を授けた崇徳2年1637年)、カムニカン(Kamnikan、喀木尼堪)部・朝鮮征伐従軍する崇徳3年1638年)、ハルハ(Halha、喀爾喀)を征す崇徳4年1639年)春、ソロンSolon、索倫)を征す。秋、明の山と高橋包囲する崇徳8年1643年)、饒余貝勒(ラオユ・ベイレ)のアバタイ(Abatai、阿巴泰),護軍統領アルジン(Arjin、阿爾津)に随い、明及び黒龍江諸部を征伐した。 順治元年1644年)、ジャライト部ドルベト部ゴルロス部の兵は睿親王ドルゴン(Dorgon、多爾袞)に随って山海関入り流賊李自成敗走させ、望都まで追った順治2年1645年)、豫親王ドドDodo、多鐸)に随い、江南平定した。順治3年1646年)、スニトSunit尼特)部出身叛乱者タンジス(騰機思)を討伐に随い、ハルハのトシェート・ハーン(Tusiyetu han、土謝図汗),チェチェン・ハーン(Cecen han、車臣汗)を敗って支援した順治7年1650年)、ホルチン部ジャサク一つ加え、ドンゴルの子のジャンジルン(彰吉倫)にこれを統領させ、ベイレ(beile、貝勒)から郡王の爵に進んだ順治13年1656年)、順治帝ホルチン部及びジャライト部ドルベト部ゴルロス部ハラチン部トゥメト部アオハン部,ナイマン部バアリン部ジャルート部アルホルチン部,オンリュート部,ウジュムチン(Ujumucin、烏珠穆沁)部,ホーチト(Hoocit、浩斉特)部,スニトSunit尼特)部,アバガ(Abaga、阿巴噶)部,ドルベン・フーヘト部(四子部落)、ウラト(Urad、烏喇特)部,ハルハ左翼部,オルドスOrdos鄂爾多斯)部の諸ジャサクに敕を賜った康熙13年1674年)、三藩の乱際しホルチン部所部の兵を徴収して呉三桂討伐した。康熙14年1675年)、叛乱起こしたチャハル部のブルニ(Burni、布爾尼)親王討伐するホルチン部その後のジュンガル・チベット征伐でも従軍した功があったため、トシェート・チンワン(Tusiyetu cin wang、土謝図親王),ダルハン・チンワン(Darhan cin wang、達爾漢親王),ジョリクト・チンワン(Joriktu cin wang、卓哩克図親王),ジャサクト・ギュンワン(Jasaktu cin wang、扎薩克図郡王)の四爵は他部に比べて報酬増えたホルチン部の六旗は左右翼に分かれ、トシェート・チンワンは右翼掌握しジャライト部一旗ドルベト部一旗管轄した。ダルハン・チンワンは左翼掌握しオルドス部の二旗を管轄し、ジェリム(哲里木)において盟(アイマク)を統べた。右翼中旗はバヤンフシャン(巴顔和翔)に駐在し左翼中旗はイクタンガリク(伊克唐噶哩克)坡に駐在し右翼前旗はシラブルハス(席喇布爾哈)に駐在し右翼後旗はエムトゥ(額木図)坡に駐在し左翼前旗はイユエクリボ(伊岳克里泊)に駐在し左翼後旗はシャンフル(双和爾)山に駐在した左翼中旗のジャサク・ダルハン・チンワン(扎薩克達爾漢親王)であるマンジュシリの玄孫にあたるスブタンバルジュル(色布騰巴勒珠爾)は、乾隆11年1746年3月にグルンフジン(固倫和敬公主結婚した乾隆20年1755年)、ジュンガル平定した功によって双俸を加えられ、アムルサナーの叛乱によって爵を奪われる乾隆23年1758年)、再びホショイ・チンワン(和碩親王)に封ぜられる乾隆37年1772年)、征金川でまたフデ(富徳)に附いてアグイ阿桂)を弾劾したため、爵を奪われる乾隆40年1775年)、爵が戻される4代の後、グンチュクリンチン(棍沁)に至り、トシェグン(鎮国公)を襲名し、官は御前大臣までで死去したその後左翼中旗のトサラフグン(輔国公)二名左翼後旗のトサラフグン(輔国公)一名襲名者途絶えた左翼後旗のジャサク・ドロイ・ギュンワン(扎薩克多羅郡王)のセンゲリンチン僧格林沁)は軍功によってボドレガタイ・ホショイ・チンワン(博多勒噶台和碩親王)に進んだ同治4年1865年)、ドロイベイレ(多羅貝勒一名、トサラフグン(輔国公)二名増えたのは、センゲリンチンの功による。 センゲリンチンの子のボヤンネモフ(伯彦訥謨祜)は初め、トサラフグン(輔国公)に封ぜられる同治3年1864年)、ベイレ貝勒)に昇格し同治4年1865年7月、ボドレガタイ・チンワン(博多勒噶台親王)を襲名し御前大臣となる。11月、命により左翼中旗のジャサク・ダルハン・チンワン(扎薩克達爾漢親王)のソトナム・プンスク(索特那木朋克)等と奉天馬賊討伐した。同治5年1866年2月馬賊を鄭家屯で大破した3月、命により吉林余匪を捕えた。光緒初め光緒帝により兼鑲黄旗侍衛内大臣授かる光緒17年1891年)に死去する

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