清朝統治下の活動
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崇徳元年(1636年)4月、後金は清と改称し、皇帝のホンタイジは詔でホルチン部に五つのジャサク(Jasak、扎薩克)を設け、バダリ(Badari、巴達礼),マンジュシリ,ブダチ,ホンゴル、ラマスヒにそれぞれ分領し、親王(cin wang、チンワン)、郡王(giyūn wang、ギュンワン)、鎮国公(トシェグン)の爵を授けた。崇徳2年(1637年)、カムニカン(Kamnikan、喀木尼堪)部・朝鮮征伐に従軍する。崇徳3年(1638年)、ハルハ(Halha、喀爾喀)を征す。崇徳4年(1639年)春、ソロン(Solon、索倫)を征す。秋、明の杏山と高橋を包囲する。崇徳8年(1643年)、饒余貝勒(ラオユ・ベイレ)のアバタイ(Abatai、阿巴泰),護軍統領のアルジン(Arjin、阿爾津)に随い、明及び黒龍江諸部を征伐した。 順治元年(1644年)、ジャライト部,ドルベト部,ゴルロス部の兵は睿親王ドルゴン(Dorgon、多爾袞)に随って山海関に入り、流賊の李自成を敗走させ、望都まで追った。順治2年(1645年)、豫親王ドド(Dodo、多鐸)に随い、江南を平定した。順治3年(1646年)、スニト(Sunit、蘇尼特)部出身の叛乱者タンジス(騰機思)を討伐に随い、ハルハのトシェート・ハーン(Tusiyetu han、土謝図汗),チェチェン・ハーン(Cecen han、車臣汗)を敗って支援した。順治7年(1650年)、ホルチン部はジャサク一つを加え、ドンゴルの子のジャンジルン(彰吉倫)にこれを統領させ、ベイレ(beile、貝勒)から郡王の爵に進んだ。順治13年(1656年)、順治帝はホルチン部及びジャライト部,ドルベト部,ゴルロス部,ハラチン部,トゥメト部,アオハン部,ナイマン部,バアリン部,ジャルート部,アルホルチン部,オンリュート部,ウジュムチン(Ujumucin、烏珠穆沁)部,ホーチト(Hoocit、浩斉特)部,スニト(Sunit、蘇尼特)部,アバガ(Abaga、阿巴噶)部,ドルベン・フーヘト部(四子部落)、ウラト(Urad、烏喇特)部,ハルハ左翼部,オルドス(Ordos、鄂爾多斯)部の諸ジャサクに敕を賜った。 康熙13年(1674年)、三藩の乱に際し、ホルチン部は所部の兵を徴収して呉三桂を討伐した。康熙14年(1675年)、叛乱を起こしたチャハル部のブルニ(Burni、布爾尼)親王を討伐する。ホルチン部はその後のジュンガル・チベット征伐でも従軍した功があったため、トシェート・チンワン(Tusiyetu cin wang、土謝図親王),ダルハン・チンワン(Darhan cin wang、達爾漢親王),ジョリクト・チンワン(Joriktu cin wang、卓哩克図親王),ジャサクト・ギュンワン(Jasaktu cin wang、扎薩克図郡王)の四爵は他部に比べて報酬が増えた。ホルチン部の六旗は左右翼に分かれ、トシェート・チンワンは右翼を掌握し、ジャライト部の一旗,ドルベト部の一旗を管轄した。ダルハン・チンワンは左翼を掌握し、オルドス部の二旗を管轄し、ジェリム(哲里木)において盟(アイマク)を統べた。右翼中旗はバヤンフシャン(巴顔和翔)に駐在し、左翼中旗はイクタンガリク(伊克唐噶哩克)坡に駐在し、右翼前旗はシラブルハス(席喇布爾哈蘇)に駐在し、右翼後旗はエムトゥ(額木図)坡に駐在し、左翼前旗はイユエクリボ(伊岳克里泊)に駐在し、左翼後旗はシャンフル(双和爾)山に駐在した。 左翼中旗のジャサク・ダルハン・チンワン(扎薩克達爾漢親王)であるマンジュシリの玄孫にあたるスブタンバルジュル(色布騰巴勒珠爾)は、乾隆11年(1746年)3月にグルンフジン(固倫和敬)公主と結婚した。乾隆20年(1755年)、ジュンガルを平定した功によって双俸を加えられ、アムルサナーの叛乱によって爵を奪われる。乾隆23年(1758年)、再びホショイ・チンワン(和碩親王)に封ぜられる。乾隆37年(1772年)、征金川でまたフデ(富徳)に附いてアグイ(阿桂)を弾劾したため、爵を奪われる。乾隆40年(1775年)、爵が戻される。4代の後、グンチュクリンチン(棍楚克林沁)に至り、トシェグン(鎮国公)を襲名し、官は御前大臣までで死去した。その後、左翼中旗のトサラフグン(輔国公)二名、左翼後旗のトサラフグン(輔国公)一名は襲名者が途絶えた。左翼後旗のジャサク・ドロイ・ギュンワン(扎薩克多羅郡王)のセンゲリンチン(僧格林沁)は軍功によってボドレガタイ・ホショイ・チンワン(博多勒噶台和碩親王)に進んだ。同治4年(1865年)、ドロイベイレ(多羅貝勒)一名、トサラフグン(輔国公)二名が増えたのは、センゲリンチンの功による。 センゲリンチンの子のボヤンネモフ(伯彦訥謨祜)は初め、トサラフグン(輔国公)に封ぜられる。同治3年(1864年)、ベイレ(貝勒)に昇格し、同治4年(1865年)7月、ボドレガタイ・チンワン(博多勒噶台親王)を襲名し、御前大臣となる。11月、命により左翼中旗のジャサク・ダルハン・チンワン(扎薩克達爾漢親王)のソトナム・プンスク(索特那木朋蘇克)等と奉天馬賊を討伐した。同治5年(1866年)2月、馬賊を鄭家屯で大破した。3月、命により吉林余匪を捕えた。光緒の初め、光緒帝により兼鑲黄旗領侍衛内大臣を授かる。光緒17年(1891年)に死去する。
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