侵略・植民地主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:20 UTC 版)
「オーストラリアの歴史」の記事における「侵略・植民地主義」の解説
入植当初のイギリス領は大陸東部、より具体的には東海岸から東経135度線に至る地域や周辺の島嶼部であったが、1825年に東経129度まで拡張され、1827年に全大陸が包含された。 ジョージ・バス (George Bass) とマシュー・フリンダース (Mathew Flinders) が1795年から行った調査は、ニュー・サウス・ウェールズ沿岸の地図の作成に貢献した。フリンダーズは地図製作に当たり、古代ギリシア人やローマ人が存在を信じていた「テラ・アウストラリス・インコグニータ(Terra Australis Incognita:「南方の未知なる大陸」の意)」にちなみ、「オーストラリア」の名をイギリス海軍省に提案した。 シドニー周辺に始まる奥地の探検は、ブルー山脈を越えることから始まった。グリゴリー・ブラックスランド、ウィリアム・ローソン (William Lawson) 、ウィリアム・チャールズ・ウェントワース (William Charles Wentworth) の3名は1813年、同山脈の先に広がる平野を発見した。これを契機に内陸開発が進められ、その拠点となる都市として、この平野にバサーストが建設された。 肥沃な大平野の発見は、牧羊業の勃興を促した。この頃イギリス毛織物業界は、原料の羊毛をヨーロッパ大陸から輸入していたが、オーストラリアはメリノ種の羊を大陸の風土に合うよう改良して良質の羊毛を産した。ラム反乱の黒幕・マッカーサーは、牧羊業で財を成した人物の代表格である。 牧羊業は1834年、それまでの基幹産業たる漁業を上回るまでに成長した。欧米と隔絶したオーストラリアにあって、高額な輸送料を払ってなお採算の取れる商品は羊毛程度しかなかったという事情もあり、羊毛の輸出額は、19世紀半ばにはオーストラリアの輸出総額の半分を超えた。イギリスでは、輸入される羊毛の過半をオーストラリア産のものが占めた。 牧羊に必要な土地は、未開の公有地を無断で開拓する、いわゆるスコッターの横行によってもたらされた。総督府は居住地制限を実施したが効果はほとんどなく、現状を追認せざるを得なかった。 こうした開発は、アボリジナルとの間に流血の抗争を生んだ。その一方で、入植者との混血も進んだ。タスマニア島では、アボリジナル女性トゥルガニニが1876年5月に死去したことをもって、「純血」のアボリジナルは絶滅したとされる。 流刑植民地としての大陸の性格にも変化が現れた。タズマニアが1825年にニュー・サウス・ウェールズから分離したのを皮切りに、西オーストラリアやヴィクトリア、クィーンズランドが、それぞれ独立の植民地となった。これと並行して、総督による統治権の制限や、立法機関や行政機関の設置を要求する声が強まり、各植民地に評議会が設置された。1840年から1868年にかけて、全植民地が流刑制度を廃止した。
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