ラム反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:20 UTC 版)
「オーストラリアの歴史」の記事における「ラム反乱」の解説
1806年に総督に着任したウィリアム・ブライ (William Bligh) は、ニュー・サウス・ウェールズ軍団の専横を断つべく、大鉈を振るった。即ち、軍団の収入源たるラム酒を決済手段として使用することを禁じたのである。しかし、軍団の元将校ジョン・マッカーサーら現地の有力者がこれに反発。ニュー・サウス・ウェールズ軍団も同調した。1808年1月、少佐ジョージ・ジョンストン(英語版) (George Johnston) 率いるニュー・サウス・ウェールズ軍団は総督府を襲撃し、拘束したブライを1年余りにわたって幽閉した。これを「ラム反乱 (Rum Rebellion) 」と呼ぶ。 副総督を自称したジョンストンは、同年7月まで植民地の実権を掌握した。その後も政権は反乱者側の手にあったが、イギリス本国から派遣されたラクラン・マクォーリー (Lachlan Macquarie) が1810年に総督に就任して、事態はついに収まった。ジョンストンとマッカーサーは本国で軍法会議に掛けられ、マッカーサーは事実上の無罪とされたが、ジョンストンは官職を剥奪され、ニュー・サウス・ウェールズ軍団は本国に召還された。以後マクォーリーは、決済手段としての通貨の流通を図ると共に、病院や道路、銀行の建設を推進して生活環境の向上に努めた。
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