エドワード2世と結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 14:12 UTC 版)
「イザベラ・オブ・フランス」の記事における「エドワード2世と結婚」の解説
イザベラは4歳で皇太子エドワード(後のエドワード2世)と婚約し、1308年1月28日、ブローニュ=シュル=メールで成婚した。フランス王フィリップ4世(新婦の父)、ナバラ王ルイス1世(新婦の兄ルイ皇太子、後のルイ10世)、カスティーリャ王フェルナンド4世の3組の国王夫妻が列席し、祝典と行事は2週間にも及んだという。 新婚早々、イザベラは夫の寵臣でガスコーニュ南部出身のコーンウォール伯ピアーズ・ギャヴィストンと対立した。王は寵臣と共に彼女に数々の嫌がらせを行うようになったため、王妃は反ギャヴィストンの旗印になっていった。反ギャヴィストン派の貴族達は宮廷からの追放や左遷を画策した。彼らの圧力によりギャヴィストンは2度追放されたが、国王と諸侯の間で交わされた政治的な取引や国王の許しによって帰国し追放を取り消された。しかし、反ギャヴェストンの諸侯によって誘拐され殺害された。 ギャヴィストンが死んだ後、エドワード2世はウィンチェスター伯ヒュー・ル・ディスペンサー父子を重用したが、彼らは王を後ろ盾に勢力を拡大したため、王権からの自立と自力救済を慣習とするウェールズ辺境諸侯は、宮廷派、実務派を問わずの反感を強めていった。 イザベラもエドワード2世のディスペンサー父子重用のために自分がないがしろにされていると感じるようになり、ディスペンサー追放を求める人々に対して好意を示すようになった。 イングランドにおいてイザベラは年間1万ポンド以上の収入を持ち、どの伯爵とも肩を並べられる存在であり、独自の豪勢な家政組織を有していた。ところがガスコーニュで百年戦争の前振れのサン=サルド戦争(英語版)が発生したことで、1324年9月にはフランス人の王妃の所領がフランス軍の橋頭堡にされる恐れがあるとしてイザベラの所領が没収されるに至った。これは彼女の家政組織の存続を危うくするものであり、これによってイザベラは真っ向からエドワード2世とディスペンサー父子と敵対する立場に身を置くことになった。
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