エドワード3世時代の議会について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 15:22 UTC 版)
「エドワード3世 (イングランド王)」の記事における「エドワード3世時代の議会について」の解説
エドワード3世の時代より前に召集された議会(パーラメント)では州や都市の代表が議員に含まれるかは全く国王の一存次第であったため、パーラメントが常に代議制議会の要素を持つとは限らなかった。事実1310年頃までは裁判官、法律家、貴族、聖職者だけで招集されるパーラメントの方が多かった。またパーラメントと無関係に州や都市の代表からなる代表制集会が開かれることもあった。しかしエドワード3世が即位した1327年以降のパーラメントは州や都市の代表が必ず招集されるようになり、代表制集会は完全にパーラメントの一部となった。議員の構成面で見れば中世イングランド議会はエドワード3世時代に完成したということができる。 王はシェリフに宛てた令状で各州2名、各都市2名の市民を議員に選出することを求め、彼らを所定の日時場所に出頭させることを命じた。州代表に選ばれた者は騎士だったが、ここでいう騎士に実質的意味はなく、州を代表するに足る名望家であればよかった。選挙は州裁判所の月例集会で行われたと見られ、詳細不明な点が多いが、恐らくシェリフや州内有力者の意向で結果が左右されることが多かったと考えられている。州代表議員は74名だった。これに対して都市代表の代表選出方法は各都市の当局に一任されており、都市ごとに様々だった。都市代表の数は州代表の倍以上であったが、彼らの地位は州選出議員と比べると著しく低かった。州代表の議員は初期には貴族の議員と合同して審議する傾向があったが、1330年代からは被治者を代表して請願するという共通の立場から都市代表議員と合同するようになり、後世の庶民院の実態を形成するようになった。 百年戦争の莫大な戦費を必要としたエドワード3世には、議会の同意を得て国民に課す租税が不可欠であり、王は議会への依存を強めたため、議会、とりわけ課税同意と請願活動に大きな役割を果たす州代表議員の発言権が増した。エドワード3世時代の議会の議事は政治問題の討議、課税、立法、司法と広範な分野にわたった。エドワードは常に議会の見解の全てを尊重したわけではなかったものの、議会を通じて世論を知り、王の政策に同意を取り付けることは有益なことだった。またエドワードは対教皇政策においてしばしば議会の支持を求め、教皇に対して「議会の意向」や「議会の決議」を盾にしてローマからの圧力に抵抗を試みた。ただし議会は戦争に関する助言については王から求められても慎重に回避することが多かった。戦争について助言してしまうと議会が戦争遂行の責任の一端を担うことになり、戦費調達のための王の課税要求を拒否することが困難になるためだった。 課税については何らかの形式で臣民の集団的同意がいるという原則は13世紀には確立していたが、エドワード3世時代にはこれに加えてさらに、 臣民の課税同意を与えるのは議会であるという原則 国王大権による課税は破棄、あるいは厳重に制限を加える原則 が立てられた。後者について具体的には1332年の議会が旧王領地や国王直属都市に課せられる強制賦課金を事実上の廃止に追い込んだことや、1340年の議会が一般に直接税に対する議会の同意権を確立したとされる制定法を定めたことが特筆される。
※この「エドワード3世時代の議会について」の解説は、「エドワード3世 (イングランド王)」の解説の一部です。
「エドワード3世時代の議会について」を含む「エドワード3世 (イングランド王)」の記事については、「エドワード3世 (イングランド王)」の概要を参照ください。
- エドワード3世時代の議会についてのページへのリンク