エドワード6世の摂政として
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「エドワード・シーモア (初代サマセット公)」の記事における「エドワード6世の摂政として」の解説
ヘンリー8世は自分の崩御後、特定の人物が幼い息子エドワード6世を傀儡にすることを恐れていた。そのため遺言状では息子の成人まで統治は枢密院が行うとし、枢密院の決定には枢密顧問官過半数の賛成が必要と定めた。しかし1547年1月にヘンリー8世が崩御し、10歳のエドワード6世が即位するやハートフォード伯は真っ先に甥エドワード6世の身柄を抑え、枢密顧問官たちの支持を得て、その摂政となり、護国卿と大蔵卿(英語版)に就任した。さらに1547年2月16日にはサマセット公(Duke of Somerset)に叙せられた。こうしてイングランド統治権は彼が握るところとなった。 外交ではスコットランド女王メアリーとエドワード6世の結婚計画を推し進めたが、スコットランドにそれを拒否されると1547年秋にも2万の兵をスコットランドに侵攻させ、ピンキー・クルーの戦いでスコットランド軍を撃破した。しかしスコットランドは要求に応じず、むしろより一層フランスとの結びつきを強め、1548年にはフランスがイングランドに宣戦布告してきた。フランス軍によるブローニュ=シュル=メール攻略を阻止することには成功したが、膨大な戦費がかかり、王領地の更なる売却と通貨悪鋳を余儀なくされた。 国内政治ではヘンリー8世時代末に後退したプロテスタントの復興を目指した。初代サウサンプトン伯爵トマス・リズリー(英語版)らカトリックを枢密院から罷免し、親カトリック的な主教エドワード・ボナー(英語版)やスティーブン・ガーディナーらを投獄した。また議会に働きかけて六信仰箇条法(statute of six articles)などプロテスタント迫害に利用されていた諸法の廃止を押し進めた。これによりイングランドは大陸からのプロテスタントの避難場所になり、彼らはこの後のプロテスタント化推進に寄与する。 さらに1549年には「礼拝統一法(英語版)」を制定し、カンタベリー大司教クランマーの主導で作成された共通祈祷書をイングランド唯一の合法的礼拝様式と定めた。これは礼拝文を一つにまとめようという初の試みだった。その内容はかなりプロテスタント寄りだが、激しい宗教対立が発生しないよう一応カトリック的解釈も可能なようにぼやかしていた。しかし結局カトリックの反発が起こり、1549年6月にはイングランド西部でカトリックの反乱が勃発した。初代ラッセル男爵ジョン・ラッセルを指揮官とする鎮圧軍を派遣してこれを鎮圧した。 さらにこの1か月後にはイングランド東部で共有地の囲い込み(Enclosure)に反発する農民の反乱「ケットの反乱(英語版)」が発生。サマセット公はこれまで農民の苦境に理解を示すことで国民人気を得ていたので、この反乱にも一定の理解を示し、そのため終始逡巡した。その間、枢密顧問官初代ウォリック伯ジョン・ダドリーが傭兵部隊を率いて出陣し、情け容赦なくこの反乱を鎮圧してロバート・ケットはじめ反乱指導者を処刑した。これ以降ウォリック伯はじめ枢密院メンバーはサマセット公の責任を追及するようになった。
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