アデナウアー首相就任
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「ヴィリー・ブラント」の記事における「アデナウアー首相就任」の解説
東西冷戦のさなか、戦後ドイツでは東西ドイツに分裂して、1949年5月に建国した西ドイツは、同年8月14日に最初の連邦議会選挙を行い、社会民主党(SPD)は得票率では693万票(29.2%)・131議席を得て第1党となったもののキリスト教民主同盟(CDU)はバイエルンの姉妹党であるキリスト教社会同盟(CSU)と合せて736万票(31%)・139議席を取った。そして11.9%・52議席の自由民主党(FDP)と4%・17議席のドイツ党と連立を組み、9月15日にボンで開かれた第1回連邦議会での首相選出投票で社会民主党のクルト・シューマッハー党首を僅差で破ってコンラート・アデナウアーがドイツ連邦共和国初代首相となった。そしてアデナウアーは首相を辞任する1963年まで一貫して西ドイツと西側諸国との連携を目指した。 キリスト教社会同盟(CSU)は戦前のバイエルン国民党に発し、戦後はバイエルン州の地域政党として誕生した政党で、キリスト教民主同盟(CDU)とは組織的には別々の政党だが議会においては統一行動をとるため、CDU/CSUと表記されている。このCDU/CSU連合は第2回連邦議会選挙以降、概ね40%台の支持を得て自由民主党(FDP)などとの連立内閣を組織し、1969〜1982年及び1998〜2005年の社会民主党政権時代を除いて長期に渡って政権を担当した。 1950年6月の朝鮮戦争の勃発でアメリカは東西の緊張が高まったヨーロッパの状況から、英仏とともに西ドイツを再軍備させて東側陣営と対峙させることを狙い、欧州防衛共同体の設立を提案した。アデナウアー首相はドイツ分断が固定化されるリスクがあることを認識しながらも他の西側諸国との対等な立場を目指して参加の意思を表明した。この防衛共同体構想はフランスが議会での条約批准に失敗したため頓挫したが、西側との協調路線で特にフランスと緊密な関係を築き、経済政策や社会政策の分野でもかなりの成果を挙げた。1952年に、欧州石炭鉄鋼共同体に加盟し、西ヨーロッパに限定した欧州統合の動きに対応してやがて欧州経済共同体条約と欧州原子力共同体条約に調印し、西欧の経済統合が加速して西ドイツ経済の復興を促進させた。一方で軍事面では1955年に北大西洋条約機構(NATO)に加盟して、同時に西ドイツの主権を制約していた占領規約が解消され主権国家としての地位がほぼ回復した。東西冷戦で西ドイツは西側の軍事同盟に参加することで、主権回復と再軍備を果たすことになった。そしてアデナウアーは西側共同体の一部として、やがて米ソ間の緊張緩和が達成されてヨーロッパの再統合を通してドイツの再統一が可能となると考えていた。故に1952年3月にソ連のスターリン首相からの「ドイツを再統一し、中立化・非武装化・非ナチ化して全ての占領軍は撤退する」との提案を一蹴した。
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