〜1982
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 14:08 UTC 版)
東京都国立市生まれ。幼少期からクラシックピアノを習う。姉の影響でロックに目覚め、高校2年時にドラムを始める。桐朋学園大学短期大学部(現:桐朋学園芸術短期大学)芸術科に進学しピアノを専攻、その傍らアルバイトをしてドラムセットを購入しバンドを続ける。 1976年、青山学院大学のガールズ・ロック・バンド「メドゥーサ」に加入する。しかし、雑誌やテレビの取材で女性蔑視的な扱いを受けるなど、不遇なままデビューすることなくバンドは解散。その後いくつかのバンドに参加。松任谷正隆プロデュースの歌手・堀川まゆみのサポートドラマーを務める。1978年頃、やはり女性だけのフュージョン・バンド「ベアトリーチェ」に加入。ヤマハ『EastWest'79』レディース部門の初代グランプリを獲得。しかしこのバンドもメンバーの就職・結婚により消滅している。 1979年秋頃、松尾清憲を中心として結成されたバンド「シネマ」にドラマーとして加入。翌1980年にCBSソニーからシングル『グッバイ・ハートブレイク』でメジャーデビューを果たす。当時は女性ドラマーが珍しがられ注目された。1981年にはファースト・アルバム『Motion Picture』、ミノルタ(現:コニカミノルタ)のCM曲に起用されたシングル『君のプリズナー』」をリリースした。シネマは鈴木慶一がプロデュースを担当し、大瀧詠一や近田春夫がアルバムに推薦文を寄せるなど将来が期待されたポップスバンドであった。しかしセールスには恵まれず、3枚目のシングル『雨のチャイナタウン』をリリース後、1981年に解散。シネマはシングル3枚とアルバム1枚を残し、25年間の眠りにつくこととなった。 シネマ解散後、鈴木さえ子はスタジオ・ミュージシャンやCM音楽作家としての活動を開始。さらにFILMS、坂本龍一のバンド「B-2 Units」、立花ハジメのバンド「H」など複数のバンドに並行して参加した。忌野清志郎と坂本龍一のシングル『い・け・な・いルージュマジック』では、『夜のヒットスタジオ』や『ザ・ベストテン』などの音楽番組でドラムを叩く姿が放送された。またこの時期には、ビートたけしのバックでドラムを叩く鈴木さえ子をテレビで観た泉谷しげるに声をかけられ、翌1983年から1985年まで泉谷のライブサポートを務めている。 1982年、鈴木さえ子加入後のFILMSは、細野晴臣が立ち上げたYENレーベルに移籍。アルバムのレコーディングに入ったものの作業は中断し、制作途中の音源がお蔵入りとなっている。同年8月、鈴木慶一と音楽ユニットを組んで楽曲の制作を始める。
※この「〜1982」の解説は、「鈴木さえ子」の解説の一部です。
「〜1982」を含む「鈴木さえ子」の記事については、「鈴木さえ子」の概要を参照ください。
- 〜1982のページへのリンク