首相としての活動
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「ヌル・ハッサン・フセイン」の記事における「首相としての活動」の解説
2008年6月、ヌル・ハッサンと内閣の働きにより、ジブチにて、暫定連邦政府とソマリア再解放同盟(英語版)の平和維持休戦協定が結ばれた。ソマリア再解放同盟は、当時イスラーム反政府勢力の代表格と思われていたので、この協定は画期的と思われた。しかし、ソマリア再解放同盟と別れたヒズブル・イスラム、アル・シャバブといった組織が引き続きソマリア南部で反政府活動を続けることとなる。 ヌル・ハッサンは2008年7月30日、モガディシュ市長のモハメド・オマル(英語版)を解任した。これに対してモハメド・オマル市長は、解任にはユスフ大統領の承認が必要である、として退任を留保した。一方で、ヌル・ハッサンは、この解任にあたってモガディシュの主要者や長老の承認を得ていると説明した。この事件は、ヌル・ハッサンと大統領の不仲を示唆することになった。 2008年8月2日、ヌル・ハッサンの内閣から、副首相2名を含む閣僚1名と副大臣1名が辞任した。辞任の理由として、モハメド・オマル市長の解任が独断だったこと、および議会に予算を提出していないことが挙げられた。これら閣僚は大統領派だった。この辞任に対してヌル・ハッサンは、辞任した閣僚を批判すると共に、今後も政府の運営には支障が無いと表明した。一方で、議会から不信任が出るか、または首相交替で和平プロセスが進展するなら、辞任しても構わないと述べた。8月3日、ヌル・ハッサンは新閣僚6名を指名し、残りは協議の上で任命すると表明した。 8月25日、議会に内閣不信任案が提出されたが、9月1日に賛成191、反対9、棄権2で否認され、内閣の信任が確定した。 2008年10月29日、政府間開発機構の指導者は、ヌル・ハッサンに事態の安定を目指した新内閣を作るよう要請した。ヌル・ハッサンは10月31日、15日以内に辞任した閣僚を除いたメンバーで新内閣を作ると発表した。また、新憲法の起草と国民投票の実施、政党や選挙に関する法律の半年以内の可決にも意欲を示した。 ユスフ大統領は、12月14日にヌル・ハッサン首相と内閣閣僚を解任したと発表した。ヌル・ハッサンは、解任には議会承認が必要だと主張した。12月15日、議会はヌル・ハッサンを支持した。一方で12月16日、ユスフ大統領は内務長官などを勤めたモハムド・モハメド・グレド(英語版)を首相に指名した。しかしモハムド・モハメドはこの指名を12月24日に辞退。これが決め手となり、ユスフ大統領は12月29日で大統領を辞任した。
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首相としての活動
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「トニー・アボット」の記事における「首相としての活動」の解説
2013年9月の総選挙では与党の労働党を大差で下し、政権交代を実現させる。同月18日、就任宣誓式を行い第28代オーストラリア連邦首相に就任した。 2014年4月に来日。 2015年1月には旧宗主国に当たるイギリスのエディンバラ公フィリップへの勲章授与を独断で決めたことをきっかけに党内の不満が噴出し、野党だけでなく与党内部からも「時代錯誤で権威主義」と批判を浴びた。経済政策や指導力へも疑問が高まり、2月6日に自由党党首からの解任動議を提出される。9日には動議を否決したものの、賛成39、反対61と賛成票が4割近くになったため求心力は低下した。その後は首相、与党とも世論調査で支持率が低下するなど与党内部からアボットに対し不信の声が高まり、通信大臣で自由党元党首のマルコム・ターンブルなどから退陣を迫られた。9月14日、ターンブルの要求を受けアボット首相は党首選挙を実施し、ターンブルに敗北、首相を辞任することとなった。翌15日、正式に首相を退任した。2019年5月18日投開票のオーストラリア総選挙では落選。
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