首相としての事績
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1998年の参議院選挙で自民党が追加公認を含め45議席と大敗すると橋本内閣は総辞職に追い込まれ、現職外相の小渕が自民党総裁選に出馬した。当初、橋本からの政権禅譲が期待されたが、前官房長官梶山静六と現職厚相の小泉純一郎が総裁選に出馬し激しい選挙戦を展開。金融機関の不良債権処理を急ぐ梶山、持論の郵政民営化を柱とする行政改革を主張する小泉に対し、小渕は財政支出による景気対策を主張した。三候補について田中眞紀子からは「軍人」、「変人」、「凡人」(それぞれ梶山、小泉、小渕。梶山は陸軍航空士官学校卒であることから)などと評された。総裁選では亀井静香や平沼赳夫らが同派閥の小泉ではなく梶山に票を流して反小渕票が分散し(後に亀井らは清和会を離脱)、梶山と小泉を破り党総裁に就任した。 7月30日、第143回国会で首班指名を受け、第84代内閣総理大臣に就任。しかし、与野党が逆転している参議院では民主党代表の菅直人が首班指名され、日本国憲法第67条の衆議院の優越規定により辛くも小渕が指名されるなど、当初の政権基盤は不安定だった。加えて、参院選で大敗した前首相と同派閥の小渕は新鮮味が薄く、マスコミからも批判を浴びた。新聞紙上には「無視された国民の声」などという見出しが並び、就任早々から「一刻も早く退陣を」と書きたてた新聞もあった。ニューヨーク・タイムズには「冷めたピザ」ほどの魅力しかないと形容された(後に、記者団にピザを配ったことがある)。 総理大臣当時、目指すべき国家像として「富国有徳」を打ち出す。この概念は静岡県知事に就任した石川嘉延により引き継がれ、石川知事時代の静岡県のスローガンの一つに掲げられた。 同年10月、「金融国会」と異名された第143回国会において、金融再生法案は野党、民主党案丸飲みを余儀なくされ、10月16日には参議院で防衛庁調達実施本部背任事件をめぐって、額賀福志郎防衛庁長官に対する問責決議が可決され、額賀は辞任に追い込まれた。この時から、当時の参議院議長の斎藤十朗と政治手法をめぐって火花を散らしていた。 しかし、その一方で政権基盤の安定を模索し、野党の公明党、自由党に接近。11月に公明党が強力に主張した地域振興券導入を受け入れ、自由党党首の小沢一郎とは連立政権の協議開始で合意した。 1999年(平成11年)1月、自由党との自自公連立政権が発足。このことで政権基盤が安定し、周辺事態法(日米ガイドライン)、憲法調査会設置、国旗・国歌法、通信傍受法、住民票コード付加法(国民総背番号制)などの重要法案を次々に成立させた。このような政治手腕に対して、中曽根康弘元総理は文藝春秋誌において「真空総理」と評した。 同年3月には能登半島沖不審船事件が発生。小渕は、夜中に急に事態が動いた場合にすぐに公邸から官邸に行って記者会見しなければいけない、という強い気持ちから、下はステテコ、上はワイシャツを着たまま毎晩寝ていた。 第26回主要国首脳会議(沖縄サミット)と西暦2000年(平成12年・ミレニアム)をきっかけとして、1999年(平成11年)10月に、小渕の発案で『二千円紙幣』の発行を決断した。 同年9月、自民党総裁選でYKKの一角、加藤紘一元幹事長と山崎拓元政調会長を破り総裁に再任。10月に公明党が正式に与党参加。続く内閣改造、党三役人事では、幹事長、森喜朗を留任させ、総務会長には加藤派が推挙した小里貞利を拒否、政調会長の池田行彦を総務会長に起用し、加藤のライバルで総裁経験者の河野洋平を外相に起用した。また山崎派が推挙した保岡興治の入閣も拒否し、深谷隆司を通産相に起用した。これは総裁選後の報復人事とささやかれた。 この時の人事では早稲田大学雄弁会OBから玉澤徳一郎農林水産大臣、青木幹雄官房長官を起用。また地元の群馬県から福田赳夫の娘婿の越智通雄金融再生委員長(森派)、中曽根康弘の息子・中曽根弘文文部大臣(江藤・亀井派)、山本富雄の息子・山本一太外務政務次官(森派)といった上州戦争の関係者を起用した。 同年12月には情報化、高齢化・環境対策などを柱にした「ミレニアム・プロジェクト」(新しい千年紀プロジェクト)を取りまとめている。このうち、情報化政策については後の森政権の時に更に発展させて、「e-Japan構想」として打ち出されることとなった。 2000年(平成12年)2月、自由党の要求を受け衆院の比例代表区定数を20削減する定数削減法を強行採決で成立させた。3月には、教育改革国民会議の開催を始めた。 同年4月1日、自由党との交渉が決裂し、連立離脱を通告されるが、翌日に脳梗塞で緊急入院。4月4日に正式に内閣総辞職した。在職616日。いわゆる五人組によって後継に森喜朗が選出され、森内閣に引き継がれた。 全体の方針を策定するだけで、各省庁の個別の案件は国務大臣自らの裁量に任せるというのが小渕内閣の特徴であった。 「日本一の借金王」と自嘲したように、赤字国債発行による公共事業を推し進めた張本人としても批判された。ただ、在任中は、日本銀行のゼロ金利政策やアメリカの好景気、何より積極財政の成果により、経済は比較的好調で、ITバブルが発生した。日経平均株価も2万円台にまで回復させた。合計約42兆円の経済対策の内訳は、公共事業が約4割を占めているが、減税や金融対策などにも充てられた。 また公明党の発案で、地域経済の活性化と称し「地域振興券」を国民に配布したが、これは「バラマキ政策の極致」と酷評された。また、労働者派遣法を改正し規制を緩和した結果、特殊分野に限られていた労働者派遣業の対象業種は大幅に拡大し、その後、派遣社員のワーキングプア問題が発生した。
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