首相としての政治姿勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 08:24 UTC 版)
「サリット・タナラット」の記事における「首相としての政治姿勢」の解説
ピブーンがフランス留学帰りということもあって、同じ独裁者でありながら議会制民主主義に一定の理解を持っていたのに対し、サリットはタイの現在の国情に議会制民主主義はそぐわないと考えていた。そのため、国王から全権を得た自分が官僚機構や軍を通じて国民を指導するという政治姿勢を死ぬまで取り続けた。 政治的には反共で通し(ラオスの内戦にも介入している)、共産主義者や反体制の言論人・文筆家を弾圧した。一方で国民の結束を目的として王室の政治利用を図り国王もそれに従い、その結果現在見られるような国王への支持基盤が形成されることになった。経済面ではアヘン栽培を禁止させ、日本や欧米から借款を取り付けるなどして高い経済成長を実現した。その一方で陸軍のコネを使って企業に多くの軍人・退役軍人を送り込むなど、今日に至る企業と軍部の癒着を作った張本人であるという見方も存在する。 また、サリットの独裁を象徴するものとして、仏暦2502臨時憲法がその例としてあげられる。憲法はわずか20条しかなく、2ページほどの簡潔な内容である。憲法17条によると、首相は国の安定に勤めるため、合法的にどんな対応措置をとることもできる。この憲法17条に基づき、サリット首相は裁判の過程を通らず、殺人犯、レイプ犯、放火犯のような重犯罪者に対し、多くの公開射殺命令を出した。また、当時社会を不安にさらした暴力団や「アンタファン」に対し、『カン・ソイ』と呼ばれる残酷な投獄方法で用いた。刑罰はわずか1年の禁固刑であるが、身動きできないほどの狭暗い部屋に閉じ込められ、食事と水は牢の外からかけられるという形であり、多くの死者を出した。当時流行の長い髪、派手な服も不良文化と見なされ標的にされた。ルンピニ庭園での毎週のダンスは禁止され、ロックンロール音楽は政党から禁止された。このような残酷な独裁ぶりを裏腹に、戦後混乱したタイ社会の秩序が大きく回復させ、犯罪を減少させた。サリット時代に、火事はまったく起きず、ほかの重犯罪も大きく減少した。 さらに、農業から工業へ転換政策を進め、主幹道路をはじめとするインフラストラクチャー整備や関連法令を整え、開発独裁を実施した。62年の新産業投資奨励法により、海外の直接投資が促進され、トヨタをはじめとする日系自動車メーカーもこの時代、はじめてタイに工場を建設した。金融政策に関しては、ロンドン大学LSE校経済学部の歴代首席で卒業したプアイ・ウンパーコーンを中央銀行総裁に登用し、タイの金融関連のインフラはこの時代において整備された。 サリットはタイ人にとって、最も厳しく残酷な独裁者である反面、混乱した社会秩序を回復させ、大きな経済成長の基盤整備に貢献した英雄でもある。後ほど民主化に成功したタイはこの時代における基盤を踏み台にし、1998年まで大きな経済成長を実現できたといえる。
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