参謀としての軍師の歴史
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中国では、周の文王が呂尚(太公望・姜子牙とも呼ばれる)を師に立て、子の武王のときついに殷を滅ぼしたことや、副将の立場だが軍略で大きな戦功を挙げた孫臏などが『史記』にみえるように、古くから軍師にあたる者が存在した。漢の高祖劉邦に仕えた張良は野戦の功績は1度も無かったが、「謀を帷幄のなかにめぐらし、千里の外に勝利を決した」と高祖に言わしめ、軍師の典型として知られている。 前述の通り、後漢の頃になって正式な職名として軍師の名があらわれ、後漢末から三国時代には「軍師祭酒」などの官名があらわれた。この時代に軍師の官名を帯びた者の中では、劉備に出仕すると「軍師中郎将」の官名を与えられ、のちに「軍師将軍」となった諸葛亮が特に有名である。諸葛亮は劉備の相談役として劉備に「自分に諸葛亮が必要なのは魚に水が必要なようなものだ」と言われるほど重用されており、外交官・政治家・武将としても重用された。曹操に仕えた荀彧は、曹操に「我が子房(張良の字)」と賞賛され、優れた洞察力と有用な進言で曹操を盛り立て、多くの有能な人材を推挙し、曹操政権の基盤を築いた。孫権に仕えた魯粛は、赤壁の戦いで曹操と対立する劉備との同盟を勧めて勝利に貢献し、その後も劉備との同盟を主導し曹操・孫権・劉備の三国鼎立の確立に貢献した。 また、明の建国の功臣の一人・劉基も、軍師と同様の役割を果たした事で中国ではよく知られた存在である(『三国志演義』の諸葛亮像は劉基をモデルにしたとする説もある)。 呂尚や諸葛亮、劉基のように歴史上に有名な軍師たちは、やがて講談や演劇のような歴史物語の中で神がかった智謀や魔術めいた策略を自在に使いこなし、更には本当の妖術まで使うようなスーパースターとしてもてはやされた。歴史物語の中で軍師は欠かせない存在となり、架空の歴史物語である『水滸伝』においても呉用や朱武が梁山泊の軍師として登場する。 日本では、中世に軍師と呼ばれる人々が現れたとされる。しかし、中世に軍師という呼称やそれに相当する役職はなく、実際に存在したのは陰陽道の影響を受けた占星術、易などの占術を学び、合戦における縁起担ぎを取り計らう軍配者だったと言われる。近世の軍学でも天候の予測に関する占星術などは大きな比重をしめており、このため近世において「軍配者」概念が「軍師」概念のなかに包含されたと言われることもある。しかし、「軍師」という言葉が史料上に現れる近世初期でも両者は概念上区別されている場合が見られるため、上記の説には一定の留保が必要とする論者もいる。 戦国時代が終焉して江戸時代に入ると、太平の時代風潮からかえって戦国大名が戦場で用いた戦法を研究する学問として軍学が生まれ、軍学者によって甲斐国の武田信玄に仕えた山本勘助、越後国の上杉謙信に仕えた宇佐美駿河守定行、駿河国の今川義元に仕えた太原雪斎、豊後国の大友宗麟に仕えた立花道雪などの伝説的な武将が軍学の始祖として称揚された結果、戦国大名家には軍師の職制が存在し、彼らが実際に活躍した軍師であると信じられるようになった。 また、江戸時代には戦国時代の合戦を取り上げる軍記物が数多く書かれて戦国大名に仕える名参謀たちが描かれ、さらに明治以降には軍記物が講談や歴史小説の題材に取り上げられて、豊臣秀吉の軍師竹中半兵衛などの軍師のイメージが一般に広まった。秀吉が竹中半兵衛を迎えるために七度彼の庵に通ったという有名な物語が劉備と諸葛亮の三顧の礼の逸話に基づくことが明らかであるように、日本の軍師のイメージは、多くは中国の歴史物語に範をとって江戸時代以降に作り出されたものであると言える。 中国や日本の歴史物語の中の軍師は、ある君主に仕えて軍事と政略に謀略をめぐらす人物として描かれた。このため、一般的な言葉としては、軍中の参謀に限らず、東アジア諸国において政略の相談役として活躍した人物のことを広く軍師と呼ぶことが多い。本記事では以下にそのような広い意味での軍師の例を挙げる。
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