参謀交代の内情
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 14:49 UTC 版)
軍令部は二回の旅順口閉塞作戦が失敗したことから連合艦隊の強行作戦方針に懸念をもった。4月3日、今後の作戦を打ち合わせるため軍令部参謀の財部彪と殖田を「三笠」に派遣。結局、第1艦隊先任参謀の有馬良橘を実質的に更迭し、開戦劈頭に負傷・後送された第1艦隊参謀松村菊勇の代行をしていた第2艦隊参謀の飯田久恒も第2艦隊第4戦隊参謀に異動、秋山真之を先任に格上げし両者の後任として殖田と佐世保鎮守府参謀の小倉を第1艦隊参謀に任命した。有馬は参謀としての職を弁えず自ら閉塞戦の指揮官として志願する等、猪武者的な所、飯田は休校中の海大の教官である秋山に逆らえないイエスマン的な性格が問題とされたという。 以上のような経緯で、碑文に示す通り温厚で協調性があり、かつ秋山に対して言うべき時は、断固として直言できる沈毅な強い意志をもつ殖田が第1艦隊参謀を命じられた。海軍首脳が相当苦慮した人事、人選であり、秋山の押さえとして殖田に期待すること大であった。 結局は小倉も負傷により異動しており(回復後、防護巡洋艦高砂の航海長として復帰するも沈没時に戦死)、日本海海戦では飯田と新任の清河純一が秋山の補佐を担った。
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