第2回節度使
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『続紀』巻第二十三にある天平宝字5年(761年)の節度使については、同巻二十二にある、天平宝字3年(759年)6月に大宰府に行軍式を作らせ、同年8月に大宰帥船王を香椎宮に派遣して、新羅を伐つべき状を奏上させ、同年9月に船500艘を北陸・山陰・山陽・南海の四道諸国に割りあて、3年以内に建造させたとする命令に続くもので、新羅征討計画の一環として設置されたものである。 『続紀』巻第二十三、天平宝字5年11月の記述によると、 従四位下藤原恵美朝臣朝狩を東海道節度使とす。正五位下百済朝臣足人、従五位上田中朝臣多太麻呂を副(すけ)。判官四人、録事四人。(中略)従三位百済王敬福を南海道使とす。従五位上藤原朝臣田麻呂、従五位下小野朝臣石根を副(すけ)。判官四人、録事四人。(中略)正四位下吉備朝臣真備を西海道使とす。従五位上多治比真人土作、佐伯宿禰美濃麻呂を副(すけ)。判官四人、録事四人。(中略)皆三年の田租(でんそ)を免(ゆる)し、悉(ことごと)く弓馬(くめ)に赴(おもぶ)き、兼ねて五行(ごぎゃう)の陣(ぢん)を調習(てうしふ)せしむ。その遺(のこ)れる兵士(ひゃうじ)は便(すなは)ち役(つか)ひて兵器(つはもの)を造らしむ とあり、 地域(道)船(艘)兵士(人)郡司子弟(人)水手(人)東海 151 15,700 78 7,520 南海 121 12,500 62 4,920 西海 121 12,500 62 4,920 のような構成になっている。表を見ても分かるように、南海道と西海道が全く同じ動員数であり、中央政府の机上の計画であること、さらに、この計画に基づいて動員された船以下を節度使が「検定」(検じて確定した)ところより、節度使の第一の役割があると、北啓太は述べている。また、ここでの動員数について、平野友彦は子弟と兵士の人数比を1:201と計算しており、北啓太は各兵士の数から100を引き、それを子弟の数で割ると200になるところから、各子弟が兵士200人の指揮官だったのではないか、としている。 この時の節度使の担当する道と所管する国の範囲は一致しておらず、東海道(遠江国・駿河国・伊豆国・甲斐国・相模国・安房国・上総国・下総国・常陸国)に加えて、東山道の上総国・武蔵国・下総国が含まれており、南海道(紀伊国・阿波国・讃岐国・伊予国・土佐国)の場合も、山陽道の播磨国・美作国・備前国・備中国・備後国・安芸国・周防国が含まれている。ちなみに、武蔵国はのちに東海道に編入されている。 『続紀』巻第二十五によると、東海道節度使は天平宝字8年7月に撤廃され、西海道節度使は同年11月に撤廃された。
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