第2回目の探検
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1803年秋、ムンゴ・パークは新たなニジェール探検を指揮するようにと政府により招聘された。パークはピーブルズでの生活の単調さや困難さにいらだち、申し出を受け入れたが、探検の出発は遅れた。モガドール出身の教師シディ・アムバーク・ブビのもとで手待ち時間は完全にアラビア語学習で占めた。1804年5月、パークはファウルシールズに戻った、そこで当時、アシュエステイル近郊に住んでいたサー・ウォルター・スコットと知り合いになり、彼らはほどなくして親密になった。9月、パークは新しい探検に出発するためロンドンに呼ばれた。パークはその当時、ニジェール川とコンゴ川がひとつであるという説を採用していた、彼は「コンゴ川に沿って帰還する望みはまったく空想では無い」とメモに残したあとイギリスを発った。 1805年1月31日、彼は政府探検隊を指揮する隊長に任命され、ガンビアへ向けてポーツマスより出帆した。彼の義理の兄弟であり中尉の副隊長アレクサンダー・アンダーソン、スコティッシュ・ボーダーズの同郷で製図工だったジョージ・スコット、さらに一行には4、5人の技術者もいた。そして、ゴレ島でパークには英国砲兵隊の中尉マーティン、35人の陸兵や2人の水兵が加わった。 8月中旬までニジェール川に到着できなかった、そのときの探検ではわずか11人のヨーロッパ人しか生き残っていなかった。生き残った者たちは発熱や赤痢に倒れた。バマコからセグーへの探検はカヌーで行われた。 現地の支配者マンソン・ディアラより許可を得たうえで、セグーより少し下りにあるサンサンディングへと向けて進む、パークはまだ知られていなかった河川の一部を下る探検の準備ができていた。 たった1人だけ作業できる技能を有していた1人の兵士の助けをかりたうえで、パークは2隻の小舟を、長さ40フィート(12メートル)、幅6フィート(2メートル)の高性能な1隻の船に変えた。彼はH.M.スクーナーをジョリバ号と命名した(ニジェール川のネイティブ名)、そして船中に乗り込み、探検隊の生き残りの隊員とともに11月19日に下流へ向け出航した。 副隊長アンダーソンはサンサンディングで10月28日に死亡した。ジョリバ号に乗船できた者は、パーク、マーティン中尉、ヨーロッパ人兵士3人(1人はとても発狂している)、現地ガイド1人、奴隷3人であった。出発前、パークはこれまで、ともに行動していたマンディンゴの案内人アイサッコを英国へ伝達するため手紙を渡してガンビアへと帰還させた。 パークは気概ある冒険における終段階にさしかかるなか、植民地省長官に宛てた手紙の中で詳細に次のように説明している、「私は成し遂げる」、「ニジェール川の終端を発見できるかあるいは死するか、固い決意をもって東に向けて出航した。けれども、すべてのヨーロッパ人は私と一緒に死ぬ、でも、私自身半分死んだようなものであるけれども、私は最後まで屈せずにやり遂げることができるだろう、そして探検の目的を達成できなかったら、私は少なくともニジェール川で死ぬだろう」。 パークは妻に宛てたなかで、沿岸地方に達するまでどこにも上陸しない意向を示し、そこに彼は1806年1月の終わりごろ到着する予定であった。これはパークから受けとった最後の便りであり、ガンビアに到達するまでに起きた惨事の報告を耳にすることはなかった。
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