反逆罪の裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/18 14:12 UTC 版)
連邦政府と緊密な関係のあった数名の者は、ウィニペグで1885年7月に裁判を行うことを要求した(実際に裁判が行われたのはレジャイナ)。複数の歴史家は、ウィニペグであれば混血で同情的な陪審員が当てられる可能性があったことからレジャイナに裁判管轄が移された、と主張するが、史学者のトーマス・フラナガン教授(カルガリー大学)は、ノースウエスト準州法が改正(死刑に相当する犯罪についてはマニトバ州で裁判を行わなければならない旨の旧規定が廃止された)されたことで、同準州でも裁判が可能になり、ウィニペグで裁判を行う必要性がなくなっただけである、と述べたている。 連邦首相のジョン・A・マクドナルド卿は裁判地をレジャイナとすることを命じ、同地でリエルはレジャイナ周辺の全地域から選ばれたイギリス系及びスコットランド系プロテスタント6名で構成される陪審に裁かれた。裁判は1885年7月28日に始まり、たった5日で結審した。裁判中リエルは2度にわたって、自身の行動を弁護しメティの権利擁護するための長い演説を行った。弁護士は、心神耗弱を理由に弁護を展開しようとしたが、リエルは「理性ある存在としての尊厳もなく生きながらえることなど意味がない」としてこれを拒んだ。 陪審は有罪の判断を下したが情状酌量を勧告した。しかし、裁判官ヒュー・リチャードソンは死刑を宣告し、執行の日は1885年9月18日と定められた。この50年後に当時陪審員を務めたエドウィン・ブルックスは、反逆罪で裁かれたはずが、実はトーマス・スコット殺害の咎で絞首刑になったと述懐した。
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