殺害の咎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 05:54 UTC 版)
「フローレンス・メーブリック」の記事における「殺害の咎」の解説
1889年4月、フローレンスは地元の薬剤師の店でヒ素を含んでいるハエ取り紙を買い、そしてのちにそれをボウル1杯の水に浸した。公判において彼女は、この方法は化粧用のヒ素を抽出する為と主張している。ジェームズは、2倍のストリキニーネを自己処方したのちに1889年4月27日に病を患った。医師らは急性消化不良の治療を施したが、しかしジェームズの容態は悪化していった。 5月8日にフローレンスは、ブライアリー宛てに彼の名声を脅かす内容の手紙を書いたが、これは乳母のアリス・ヤップに横取りされた。ヤップはそれをジェームズの兄弟エドウィンに渡したが、彼はバトルクレス・ハウスに留まっていた。エドウィンは多くの証言によればフローレンスの情夫の1人であり、手紙の内容を兄弟マイケル・メーブリックと共有したが、彼は事実上一家の長であった。マイケルの命令で、フローレンスは一家の女性主人としての地位を剥奪され、自宅軟禁された。5月9日に看護婦は「ミセス・メーブリックがひそかに肉汁の瓶をいじくりまわしていた」と報告したが、のちにこれは0.5グレーン(約32.4ミリグラム)のヒ素を含んでいることが判った。フローレンスの手紙は、彼女の夫が彼女にそれを気付けの1杯(pick-me-up)として投与するように頼んでいたことを後に証明した。一方でジェームズ自身はその内容物を一切服用しなかった。 ジェームズ・メーブリックは、1889年5月11日に自宅で死亡した。彼の兄弟らはその死因を疑い、遺体を検死にかけた。遺体からはわずかなヒ素が検出されたが、致死的と判断されるほどではないことが判った。これがジェームズ自身が摂取したか、それとも第三者によって投与されたかは解明されなかった。近くのホテルで行われた死因審問の後、フローレンス・メーブリックはジェームズの殺害のかどで、リヴァプールのセント・ジョージズ・ホールにてジェームズ・スティーヴン裁判官の前で公判に付され、有罪および死刑判決を言い渡された。 公衆の抗議の後、ヘンリー・マシューズ内務大臣、および大法官ハルスベリー卿は、次のように結論づけた。「証拠はミセス・メーブリックが殺意をもって夫に毒を盛ったことを確証している。しかし、そのように投与されたヒ素が実際に彼の死因であるかどうか合理的な疑いの根拠がある。」 死刑判決は、彼女が決して訴えられなかった犯罪への刑罰として終身刑に減刑された。1890年代に、新たな証拠が彼女の支持者らによって公表されたが、しかし上訴の可能性はなく、そして内務省は首席裁判官ラッセル卿の奮闘的な努力にも関わらず、彼女を釈放する意向はなかった。 事件は、ちょっとした「有名な訴訟」として大西洋の両側で多くの新聞報道を引きつけた。ヒ素は当時、一部の男によって強精剤兼強壮剤と見なされており、そしてジェームズ・メーブリックはそれを定期的に摂取していた。ある化学者が、自身が長期間にわたってジェームズに毒を供給していたことを証言した。またバトルクレス・ハウスの捜索で発見されたヒ素は、少なくとも50人を殺害できるだけの量であると判った。フローレンスの結婚生活は完全に冷え切っていたものの、彼女には夫を殺害する動機はほとんどなかった。ジェームズが遺言状で彼女とその子らに遺した経済的な備えはわずかばかりであったことも含め、フローレンスは、夫が法律的に彼女と別居する他は、生きている方がまだ恵まれていたかもしれないとされる見方もある。多くの人の意見は「フローレンスは実際に夫へ毒を盛ったが、その理由は夫がフローレンスとの離婚を決意したことで、それがもし現実となればヴィクトリア朝社会において彼女は破滅するからであろう」というものであった。またフローレンスは離婚後に我が子らの監護権を失うことを危惧し、犯行に及んだとされる見方もある。
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