木曽義利とは? わかりやすく解説

木曽義利(きそ よしとし) 1577~1640

仙三郎 義就
◇父:木曽義昌 子:木曽玄蕃充義辰
 徳川家康関東入国に伴い豊臣秀吉信濃本領接収された後、下総1万石を得る。後に叔父義豊殺害の咎改易された。

木曾義利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/21 00:42 UTC 版)

木曾 義利(きそ よしとし、1577年天正5年)[1] - 1640年寛永17年)[2])は、安土桃山時代江戸時代の人物。木曾義昌の子。幼名は岩松丸。大名としての木曾氏の最後の当主。母は武田信玄の娘・真理姫。子に木曾義辰。兄に千太郎。弟に木曾義春と木曾義一(義通)。

経歴

天正18年(1590年)、父の木曾義昌は、徳川家康関東移封に伴い、先祖代々所領としていた信濃木曽谷から下総海上郡阿知戸1万石(網戸、現在の旭市)へ移されて領地としていた。木曽谷は太閤蔵入地[3]となり、犬山城主の石川光吉が木曾代官も兼務した。

天正18年(1590年)、小田原征伐の際に父の義昌は病気であったために、嫡男である義利を派遣したが義利は合戦に遭遇しなかった。

文禄4年(1595年)、父の義昌が没したことにより家督を相続した。

しかし、義利は粗暴な振る舞いが多く、叔父の上松義豊(上松蔵人)を殺害したことを耳にした家康によって、

慶長5年(1600年)、改易されたとされるが、真相は不明である。

その後、母・真竜院(真理姫)の下へ赴き、隠棲したともいわれるが、阿知戸を退去した後の義利に関しては、確たる史料に基づく消息は残っていない。

東国から諸国への行脚を思い立ち、木曽を通って四国に至り讃岐国で死去したと伝わる[4]

また京都に行き剃髪して宗屋と号し、寛永17年(1640年)に伊予国松山で没したとする説もあるが[4]、確証は無い。

弟(義昌四男)の義一(義通)も、母の真竜院と共に木曽谷で隠遁したとされるが、その後や子孫に関しては伝わっていない。

もう一人の弟(義昌三男)の義春は大坂の陣における豊臣秀頼の浪人募集に応じ、大坂城に入って戦死した[5]

長崎県平戸市大島村(的山大島)では義利が流浪して現在長崎県壱岐島湯本に居た時、平戸藩松浦氏より的山大島の政務役に任ぜられ、井元弥七左衛門義利と改名しその地を治め寛永3年(1626年)12月14日に没した[6]と伝えられている。

前平免神山地区に井元家初代(義利)、二代の墓と木曽家先祖に対する水向塔もある。

井元家は三代目義信が井元鯨組を創業し大島村神浦を整備して捕鯨を行っており、井元家墓地には九州最古の鯨供養塔もある。

子の玄蕃義辰(よしとき)は後の伊予松山藩松平家に仕えたが、後に故あって浪人となり、

その子らは最終的に元は木曾氏の一族で、尾張藩の重臣となっていた千村平右衛門家山村甚兵衛家を頼り、尾張藩ほかに召し抱えられた[2]

脚注

  1. ^ 笹本 2016, p. 238.
  2. ^ a b 小高春雄「旭市東漸寺の伝木曽氏石塔について」『房総の石仏』20号、2010年。 
  3. ^ 豊臣家の直轄領となっている
  4. ^ a b 笹本 2016, p. 239.
  5. ^ 柏木輝久、北川央監修『大坂の陣 豊臣方人物事典』宮帯出版社、2016年。 
  6. ^ 中倉光慶「西海捕鯨と井元弥七左衛門家について」『松浦党研究』6号、1983年。 

参考文献

  • 笹本正治『信濃の戦国武将たち』宮帯出版社、2016年。 

木曾 義利

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「木曾義利」の記事における「木曾 義利」の解説

1640年寛永17年))は、安土桃山時代江戸時代人物木曾義昌の子大名として木曾氏最後当主。母は武田信玄の娘・真理姫。子に木曾義辰。弟に義春と義一(義通)。

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