木曽義昌とは? わかりやすく解説

木曽義昌(きそ よしまさ) ????~1595


木曾義昌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/19 07:12 UTC 版)

 
木曾 義昌
木曾義昌像(千葉県旭市・東漸寺所蔵)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文9年(1540年
死没 文禄4年(1595年)?
別名 義政[注 1]
戒名 東禅寺殿玉山徹公大居士
墓所 東漸寺千葉県旭市網戸)
官位 宗太郎、左馬頭、伊予守
主君 木曾義康武田信玄勝頼織田信長北条氏直徳川家康豊臣秀吉→徳川家康
氏族 木曾氏(藤原姓)
父母 木曾義康
兄弟 義昌上松義豊、岩姫
真理姫
岩姫、千太郎、義利、義春、義通
娘(毛利高政正室)
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木曾 義昌(きそ よしまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将戦国大名信濃国木曾谷の領主木曾氏の第十八代当主。正室は武田信玄娘の真理姫。

出自

木曾氏は断絶した源義仲の嫡流に連なる名族を自称しているが、そのような内容の系図が南北朝時代に作成されたのではないかと指摘されている[1](ただし直系の先祖は藤原北家秀郷流を称している)。

生涯

天文9年(1540年)、木曾義康の嫡子として生まれた。

当初は小笠原氏村上氏らと共に甲斐の武田信玄の信濃侵攻に対抗したが、

弘治元年(1555年)に更なる侵攻を受けて武田氏の麾下に入った。

木曾氏は隣接する美濃飛騨との国境地帯を押さえていたため、信玄は、義昌に三女[注 2]の真理姫を娶らせ[2]、武田家の親族衆として木曽谷を安堵した。

なお、この真理姫の輿入れについては、同時代の確実な史料で確認することはできない[3]

しかし実際には主だった家臣や親族を甲府に人質として置き、木曽の治世はすべて武田家の監視の元で行われたのであって、甲斐国の属国化を余儀なくされた。これにより木曾谷は、武田氏の美濃や飛騨への侵攻における最前線基地となった。

永禄3年(1560年)、御嶽山に登拝して崇敬したことが知られている[4]

武田氏の西上作戦に際し、元亀3年(1572年)9月、義昌は、山村氏等の重臣を従えて長峰峠を越えて飛騨へ入り、日和田口より三木自綱を攻めてこれを破った[5]

この時に山村良利と子の山村良候は土豪の檜田次郎左衛門尉を討取った。

信玄は、この功績により、義昌は山村良利と子の山村良候に美濃国恵那郡安弘見郷300貫と千旦林村茄子川村300貫の地を与えた。[6]

元亀4年/天正元年(1573年)8月、木曽氏の家臣で田立村の根尾山尾崎にあった砦を守っていた原平左衛門[7]が、恵那郡川上村の河折籠屋を攻め落とした時に、義昌は恵那郡坂下村において、五貫文の土地を与え、なお苗木城を攻め落とせば別に賞を与えると書状を与えている[8]

(義昌 朱印) 今度 河折籠屋 之 調略 神妙也、 爲加恩 於 坂下 五貫文 地出置候、苗木 成就之上 場所 聞届可 申付者也 仍如件 元龜四癸酉 八月廿四日 原平左衛門殿

天正2年(1574年)には武田信玄の命により美濃国恵那郡阿寺城を攻めて落城させ、城主の明照遠山氏遠山友重は討死を遂げた。また付近の恵那神社坂本神社、その別当寺も焼討して破壊した。

信玄の死後、高天神城の戦いに敗北して凋落を見せはじめた武田家の行く末に不安を抱くと共に、義兄の武田勝頼による新府城造営の賦役増大と重税に不満を募らせた義昌は、

天正9年(1581年)8月26日に苗木遠山氏遠山友忠より織田信忠からの武田攻めの準備に関する書を送られている[9]

天正10年(1582年)1月、遠山友忠を通じて織田氏の調略に応じ[10]、実弟上松義豊を人質に出し、武田勝頼から離反した[11]

これが信長の甲州征伐のきっかけを作ることになった。

勝頼は人質として送られていた70歳の母、側室、13歳の嫡男・千太郎、17歳の長女・岩姫を、新府城で処刑した上で、武田信豊を将とする討伐軍を木曽谷に向けて派遣したが、義昌は地の利を得た戦術と織田信忠の援軍を得て鳥居峠の戦いでこれを撃退した。

しかし、鳥居峠より北東側の贄川では激しい戦いとなって、武田勢の兵火により観音寺が一時期荒廃した。

武田家滅亡後

武田家滅亡後は、信長に出仕した。信長は義昌に梨子地の太刀と黄金100枚を与えた。

さらに信濃で筑摩郡安曇郡の二郡を与えるとの内命を伝えたとされ[12]深志城に城代を置いて木曽の他・松本・安曇郡支配の拠点とした。

しかし僅か3ヶ月後の天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変が勃発すると、信濃国内も混乱した。

当時、北信濃海津城主となっていた森長可は、高井郡水内郡更級郡埴科郡の所領を放棄して美濃金山城へ撤退しようとした。

しかし、義昌、遠山友忠(久兵衛)、肥田忠政(玄蕃)、平井頼母久々利頼興(土岐三河守)は、森長可の美濃への帰国を喜ばず、

かねてより、森長可と敵対関係にあった肥田忠政(玄蕃)は、苗木城へ赴き、

遠山友忠(久兵衛)は、義昌と相談し、長可の帰路を捕らえ、木曽福島で暗殺することを計画し、もし不成功に終わったら恵那郡の千旦林村で決戦することを企てた。

海津城下で商売をしていた金山の道家彌三郎は、このことを知って、長可に「木曽福島城の木曾義昌も暗殺を画策している」と密告した。

そこで長可は敢えて木曽福島城を迂回せず、まずは到着予定日を書いた書状を義昌に送ると、わざとそれより1日早い日取り、それも深夜遅くに城門を破城槌で破壊して木曽福島城に押し入るという策略を実行した。

義昌は驚き、一礼して書院に下がり、息子の岩松丸(後の木曾義利)を給仕として茶を差し出した。

長可は茶を飲まず、養子にしたいと言って岩松丸の手を取って身柄を拘束したうえで出発した。

意表を突かれた義昌は、やむなく千旦林村に伏兵していた遠山友忠等の長可をよく思っていなかった近隣の諸将に、岩松丸が人質として連行されたことと、既に暗殺計画は知られているので森軍に手出しをしないように懇願した。

遠山友忠は、ここまで準備していたのに撤兵するのは残念であると反対し、森長可を討つ計画を主張したが、平井頼母や肥田玄蕃に宥められて断念した。またここで義昌の恨みを受けるようになれば、後に問題が残るとして撤兵した[13]

森長可は、無事に千旦林村を通り過ぎて、大井村へ到着し、そこで人質として連れて来た岩松丸に、二人の士を付けて木曽福島城へ送り届けて、金山城へ帰った。

また、変後の信濃の混乱を好機と見た深志の旧領主・府中小笠原氏の旧臣が越後国上杉景勝の後援を受けて前信濃守護・小笠原長時の弟である洞雪斎を擁立し、木曾方は深志城を奪われ、本領の木曽谷へ撤退するに至った。

天正10年(1582年)8月、木曾義昌の稚子の愛若が、恵那郡坂下村の西方寺に侵入して焼討した際に、大般若波羅蜜多経600巻と涅槃像を奪い、木曽須原定勝寺に納めた。このことは同書の表紙裏に、定勝寺住持の天心宗球の墨書銘によって確かめられる。

右彼尊経 隣国苗木 一乱砌 天心巻物 年來望願處 索之新添 六百軸也 伍百之内 一箱不足 爲末代 且 天長地久處 天正十壬年 八月吉日 定勝常住

『吉蘇志略』の定勝寺什物の記述の中に涅槃像についての記述がある。

涅槃像 一軸 寺僧の傳え言ふ 天正十年 木曾義昌 濃州を撃ち、義昌の稚子 愛若 軍に従ひ 之を奪ひ 以て帰り、此の寺に寄附す、住持 天心和尚 誌を為す 其の画 大幅にして 甚だ古し 凡手に非ず

武田家の遺領を巡り上杉景勝と徳川家康・北条氏直の三者が争うと(天正壬午の乱)、初めは氏直に従っていたが、8月の甲州黒駒合戦での後北条軍の敗北と、旧主の織田信孝の意向を仰ぎ[14]、9月には家康に寝返り、他の信濃国衆から集めた人質を引き渡し、その代わりに再度安曇・筑摩両郡および木曽谷の安堵を受ける約定を得た。

ところが、家康が小笠原長時の子・小笠原貞慶の深志城復帰を認めたことから、6月に小笠原貞慶が木曾に侵入し上松まで攻め込んだため義昌が撃退した。

天正12年(1584年)、家康と羽柴秀吉の対立による小牧・長久手の戦いに呼応して、三男・義春を人質として秀吉に恭順した。

9月には、菅沼定利保科正直諏訪頼忠などの徳川勢が清内路峠を越えて妻籠城に押し寄せた。義昌は山村良勝を主将として丸山久右衛門・中關大隅らと迎え撃ち、撃退している。

義昌は、島崎重通島崎藤村の祖先にあたる)を馬籠城に入城させていたが、徳川勢は、馬籠宿の北に陣を張り攻める様子を見せた。島崎重通は守ることができず、妻籠城の山村良勝のもとへ走り、その後、撃退した。

天正14年(1584年)、秀吉と家康の講和により、木曾氏を含めた信濃の諸将は家康の傘下に入り、地方的な部将としての木曾氏の独立性は失われた[15]。秀吉の北条攻めには病床におり出陣はできなかった[16]

晩年

天正18年(1590年)、家康の関東移封に伴い、家康から下総国阿知戸(現在の千葉県旭市網戸)1万石が与えられて木曽谷を去った。

領主にとって木曾の土地資源は、今日でも全体の九割五分を占める山林であることから[17]、木曾の山林に着目した秀吉から木曾を没収され阿知戸を与えられたとする説もある[18]

同年12月、下総国三川村に到着、東園寺に居住し、芦戸地域を整備し、天正19年(1591年)3月、芦戸城(阿知戸)に入った[19][20]

城の東南には山村良勝の屋敷が、西南には千村良重馬場昌次の屋敷を配置し、城の南には市場を開けるように町作りが計画された[19]

天正18年(1590年)12月12日、千村良重に対して、十日市・蛇園700石の知行と箕広66貫文の代官職を宛行った[19]

文禄2年(1593年)下総国阿知戸に東漸寺を開基、木曽谷から迎えた悦堂が開山した。

没年は、文禄4年(1595年)2月13日、同年3月17日、慶長元年(1596年)7月13日の三説がある[21]。家督は義利が継承した。

法名は東禅寺殿玉山徹公大居士[19]。墓所は千葉県旭市網戸の東漸寺(旧名は東禅寺)にあり、遺体は城の西方椿海水葬され、干潟になってから改めて墳墓が作られた[19]

寛文11年(1671年)、椿海は干拓され干潟8万石と称される田園地となった。現在、その一角に木曾義昌公史跡公園が造られ、義昌の銅像がある。

関連作品

小説
  • 伊東潤『木曾谷の証人』(『戦国鬼譚 惨』収録の短編)
ドラマ

画像集

参考文献

  • 平山優『天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』(増補改訂版)戎光祥出版、2015年(原著2011年)。 
  • 『西筑摩郡誌』 後篇 木曾人物誌 二三、木曾左馬頭義昌 p571 - p573 長野県西筑摩郡役所 大正4年
  • 『木曽福島町史 第1巻 (歴史編)』 第三章 義仲興起より木曾氏滅亡迄 第二十二節 義昌 p130 - p160 木曽福島町教育委員会 1982年
  • 『川上村史 通史編・史料編』 第四章 中世 第三節 豊臣政権 木曽の兵坂下に入る p169 - p170 川上村 1983年
  • 『中津川市史 上巻』 第四編 中世 第四章 安土・桃山時代 第五節 支配者交代 ニ 木曾氏と中津川 p646-p648 中津川市 1968年
  • 『付知町史 通史編・史料編』 第ニ章 中世 第一節 中世の裏木曾 九 木曾・苗木の戦国支配 p91 - p97 付知町 昭和49年
  • 『旭市史 第1巻 (通史編・近代史料編)』 第二章 椿海周辺の中世文化 六 木曾義昌と勝頼・信長・秀吉・家康 旭市史編さん委員会 1980年
  • 『旭市史 第3巻 (近世南部史料編,中世史料編)』 木曾義昌関係文書・転換期の武将木曾義昌・史料目録・木曾義昌関係資料 p997 - p1069 旭市史編さん委員会 1975年
  • 『東濃の古寺』 西方寺跡 p24 - p25 東濃教育事務所学校教育課 昭和57年

脚注

注釈

  1. ^ 義昌と同音の異字。
  2. ^ 一説に四女あるいは五女とも言う。

出典

  1. ^ 『木曾福島町史 上巻』77-79頁
  2. ^ 日義村誌編纂委員会 編『日義村誌 歴史編 上巻』1998年、243頁。 
  3. ^ 笹本正治『信濃の戦国武将たち』宮帯出版社、2016年、210頁。 
  4. ^ 菅原壽清; 時枝務; 中山郁 編『木曽のおんたけさん-その歴史と信仰-』岩田書院、2009年、82-83頁。 
  5. ^ 『恵那郡史』p.154-173
  6. ^ 西筑摩郡史・濃飛通史
  7. ^ 川上村史 p158
  8. ^ 木曾考
  9. ^ 『木曾福島町史』134頁
  10. ^ 信長公記
  11. ^ 平山 2015, p. 13.
  12. ^ 平山 2015, p. 35.
  13. ^ 兼山記
  14. ^ 平山 2015.
  15. ^ 旭市史3, p. 1001.
  16. ^ 旭市史3, p. 1002.
  17. ^ 所三男「木曾の検地」『信濃』8巻12号、1956年。 
  18. ^ 旭市史1, p. 53.
  19. ^ a b c d e 旭市史1, p. 54
  20. ^ 竹内英春『義仲と木曽義昌』(私家版)、1993年。 
  21. ^ 旭市史3, pp. 1008–1009.

外部リンク

先代
木曾義康
木曾氏
第18代
次代
木曾義利

木曾義昌(きそ よしまさ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:19 UTC 版)

センゴク」の記事における「木曾義昌(きそ よしまさ)」の解説

通称伊予守武田家傘下にある信濃国木曾谷領主。勝頼らが推し進める新府移転実現しても、僻地木曽谷には恩恵がない事を感じ取っており、織田家から提示され所領安堵加増という好条件を受け、断腸の思いで質となった生母と子を犠牲にして織田家内応する。この義昌寝返り名門武田家崩壊序章となった

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