木曾義仲の伝承とは? わかりやすく解説

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木曾義仲の伝承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 20:14 UTC 版)

鬼無里村」の記事における「木曾義仲の伝承」の解説

木曽義仲家臣らにまつわる伝承横田河原の戦い勝利した義仲は、北陸経由して上洛するため、鬼無里通って姫川沿いの千国街道抜けたとされる。(裾花川源流奥裾花湿原から東へ西山越えると奉納温泉小谷村)である。) 裾花川沿いに鬼無里入った義仲は、白髯神社平家追討祈願をした後、村人道案内にたてて川に沿って北上した両京地区から裾花川沿いに3キロメートルほどさかのぼった土倉地区文殊堂木曾義仲立ち寄ったとされ、道案内をした村人に姓を名乗ることを許し守護仏与えたとされる仏像江戸時代には善光寺開帳合わせて7年一度松代運ばれ出開帳行った。この文殊堂は“日本三文殊”の一つ とされ、戦前北信各地から多く参詣者を集めた。またすぐ近くには、鎌倉時代建築考えられている旭社(義仲称号旭将軍の名に因む)があり、義仲祀られている。 さらに裾花川沿いにさかのぼると、濁川との合流地点付近に木曽殿アブキと呼ばれる岩穴がある。義仲軍は小谷向けて山越えする前にここで野営した伝えられる岩穴かつては間口140メートル奥行き70メートルあったが、善光寺地震大部分崩落したとされる現在の岩穴間口60メートル奥行き20メートルほどである。 義仲敗死した後、二男の義重(力寿丸)が鬼無里逃れたとする伝承も残る。力寿丸巴御前の子で、はじめは後見人仁科盛遠庇護受けていたが、鎌倉方詮議厳しくなり、鬼無里逃れ土倉住んだとされるまた、義仲家臣には鬼無里土着した者もいるとされる。山角地区には義仲最期を共にした今井兼平城跡があり、観音堂には兼平守護仏とされる菩薩像祀られている。新井地区には兼平勧請による児安大明神がある。また、兼平の兄、樋口兼光が築かせたとされる木曽殿城跡も残されており、鬼無里には兼平兼光後裔とされる今井姓、樋口姓の住民が残る。 2000年平成12年)には、全国木曽義仲ゆかりの会の総会鬼無里開催された。

※この「木曾義仲の伝承」の解説は、「鬼無里村」の解説の一部です。
「木曾義仲の伝承」を含む「鬼無里村」の記事については、「鬼無里村」の概要を参照ください。

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